愛花風

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90年代からの卒業(2)

本稿では、中央省庁の再編や内閣機能の強化といった行政改革について説明する。行政改革は、橋本内閣時代の頃から本格的に行われた。この政策は、選挙制度改革にも通じる重要な改革である。


前回の記事

目次

行政改革前史

我が国における行政改革は、主に公務員の増大に歯止めをかけることを目的として行われた。これには二つの背景が存在すると考えられる。一つは、政府が担うべき多くの業務が実現されていないという認識だ。当時は、高度経済成長の恩恵を受けられずに弊害を食らう人が少なくなかった。もう一つは、公務員を身分として捉える戦前的な考え方が残っていたこともある。解雇の恐れが無く、時間的なゆとりや退職後の年金に恵まれているといった印象が真偽を問わず根強かった。


池田勇人内閣の時には、第一次臨時行政調査会(第一次臨調)という諮問機関が霞が関の外部に設置されて、行政部門の課題が提示された。この時には、各省の局の削減と国家公務員に関する総定員法が成立した。同法では政治の役割は拡充せず、公務員給与の水準を引き上げつつ行政部門の効率を高めることが目的とされた。また、1965年では行政監理委員会も設置された。


鈴木善幸政権下にて、81年~83年まで第二次臨調が成立した。中曽根政権では、政府の活動範囲の抑制やそれによる財政負担軽減を目的に三公社民営化や老人医療費有料化、総務庁の設置、内部組織編成権の政令移管、内部部局再編、定数削減、行政手続法・情報公開法の作成などが行われた。82年度の予算編成ではゼロ・シーリングが、83年以降はマイナス・シーリングが用いられた。この背景に、70年代のオイルショックや高度経済成長の終了による財政逼迫への懸念や主要先進国における行政改革があったことは間違いない。


臨調行革の特徴は、行政管理上の改革のみならず行政組織再編や政府役割縮小による経費・歳出削減や経済構造調整のための規制改革を包摂したものである。尚、行政手続法や情報公開法は行政透明化を図る目的で制定されたものだ。また、第二次臨調ではフォローアップのために審議会が活用されていた。尚、当時は既存の1府12省体制を前提として国土開発行政関係3庁の統合、行政組織規制の政令化等が提言されたものだった。


審議会の在り方は行政改革の企画立案の基本となった。まず内閣は有識者からなる臨時の審議機関を設ける。その機関から出された企画案が政府に提出された時に内閣は閣議決定を行う。行政改革関連法案は臨時国会や特別委員会にて審議されて、内閣は答申実施を監視する機関を設ける。


90年代では、行政改革の流れを経由して政治基盤構造や政界と財界との繋がり、政党構造等の再編成が主張された。国会審議の形骸化を背景として誕生した細川護熙連立政権は、小選挙区制等だけではなく、第三次臨時行政改革推進審議会の提言を基に規制緩和地方分権化を進めた。


同審議会の最終答申は中央省庁の再編を「できるだけ速やかに検討を進めるべき課題」とした。これは、既存の府省体制の中で公共性を限定・変更する従来の改革路線から既存組織を破壊して、大括りの新体制を築くことで公共性からの撤退を実現する路線へと「飛躍」した内容だ。その背景には、「社会主義体制」の崩壊や市場のグローバル化といった国際環境の変化に対する経済界の危機意識があった。


細川護熙日本新党代表は当時、「結党宣言」や「日本新党:責任ある変革」により、党の政治理念やプログラム、姿勢を明らかにした。自民党を除いた細川連立政権による政治改革四法は、その後の政治改革にも繋がる。


自らを「政治改革政権」とした細川内閣だったが、政治改革における連立与党の摩擦は小さくなかった。社会党選挙制度改革に反対したり、武村正義官房長官が改革方法にて内閣の方針と対立したことがあったからだ。政治改革自体は、1994年1月29日に細野と河野との合意が出来たことで成立した。だが、細川が合意の数日後に突然表明した「国民福祉税」構想への反発によって、連立与党の対立は決定的になった。細川政権が当初目指していた所得税減税の財源が確定しなかったことが背景にあった。


細川内閣は、武村官房長官の更迭による内閣改造の失敗、佐川急便疑惑によって総辞職した。その後、政策協議の一致羽田孜内閣が誕生した。しかしその後、新生党日本新党民社党を中心とした新会派「改新」が成立した。民社党委員長の大内啓伍小沢一郎、細川らが小選挙区制への対応と社会党への対抗を目指して、以前から計画していたのだ。だが、新会派に怒った社会党は連立政権から離脱した。


社会党は当初、連立政権への復帰を考えていた。羽田首相も、総辞職と引き換えに社会党を連立与党に戻した後で再登板しようとしていた。背景には小沢の説得もあるが。だが、社会党の左派は自民党の羽田・竹下派らと組んで村山富市連立政権を作ろうとしていた。その結果、連立与党と社会党との政策協議は決裂した。羽田は、再登板の可能性に期待して総辞職した。


当初の小沢は、羽田の再登板に反対するため社会党との政策協議を拒んでいた。一方の自民党は、村山富市を首相とすることで連立政権をつくる方針を定めていた。尤も、接触自体は細川政権退陣の頃から始まっていたが。その結果、自民・社会・さきがけ三党による連立政権が決まった。


自民・社会党首会談の後に、小沢は政策協議を再開した。その本人の狙いは、首相指名選挙を利用した自民・社会の分裂である。実際に、小沢は海部俊樹首相候補として指名選挙に挑んだ。海部は自民党を離党した上に中曾根や渡辺美智雄から支持を得るも、村山には負けたが。


村山内閣発足後、新生党公明党日本新党民社党らは「改革推進評議会」を設立して、後に統一会派「改革」と新党準備会を立ち上げた。そして94年12月、各党が解散して「新進党」が立党された。公明党の場合は、95年参議院選挙で改選を迎える参議院議員衆議院議員以外が残留したが。実際に、同党は1995年の6月と10月に行政改革法案を国会に提出した。


新進党は海部を代表として、「たゆまざる改革」を綱領に示した。羽田と小沢との確執や公明党の存続といった不安材料はあったが、それでも自民党にとっては脅威となった。細川や海部、羽田といった「選挙の顔」が新進党に揃っていたからだ。これは、政党間競争を進める小選挙区制にて有利に働く。そんな中で、自民党の新たな総裁として橋本龍太郎が登場したのだった。

橋本行革の軌跡

橋本龍太郎が首相になった原因は、1995年9月の自民党総裁選で当選したことにある。河野洋平総裁の頃では、94年9月の参議院愛知再選挙やその翌年4月の統一地方選挙の戦績が悪いことがあった。そして、7月の参議院選挙で自民党比例区議席数や各得票数で新進党に負けた。そこで、国民の人気が高かった橋本が自民党の顔として期待されるようになったのだ。総裁選の時に河野支持の小渕派三塚派から造反者が出てきたこともあって、橋本は総裁になった。


1996年1月、橋本は村山から政権の禅譲を受けたことで内閣を結成した。橋本は就任早々に、内閣の使命として「変革」と「創造」を掲げて21世紀の新たなシステムを創る目標を示した。この背景には、本人が政務調査会長だった頃に「二十一世紀委員会」を設置して、自民党の基本政策を検討してきた事がある。その他にも、73年から行財政特別委員会の副委員長や80年から六年間行財政調査会の会長を務めたこともある。第三次中曽根内閣では、本人は運輸大臣として国鉄民営化関連法案を成立させた。


住専や沖縄米軍基地の利用・縮小といった問題もあって、橋本はすぐに改革を始めることが出来なかった。だがそれでも、自民党社会党のくびきから解放されて政策を行うことが出来たことの影響は大きかった。


橋本内閣は、1996年に置いた行政改革会議を基に行政改革プログラムを制定した。同年6月中旬に、行政改革を中心とした「橋本ビジョン」が「橋本行革の基本方向について」として自民党から発表された。橋本行革の場合は、臨時行革の時とは違って行政管理が注目されていた。


96年に橋本は所信表明演説にて行政改革、財政構造改革、経済構造改革社会保障構造改革、金融システム改革、教育改革(翌年1月に発表)を訴えていた。その背景には、96年10月の総選挙における小沢一郎の存在があった。当時の小沢は、二大政党制を軸とする政権交代システムを考えていて、そのために新進党を立党した。そんな小沢と橋本は5つの約束を交わしていた。その一つに、「大胆な行政改革地方分権規制撤廃を断行し、国と地方の経費を二十兆円以上減らします」という文言がある。その上で、中央省庁の十省への再編成や国家公務員の25%削減、高級官僚の半減が提唱された。
https://www.jsdi.or.jp/~y_ide/syo_ozawa.htm


行政改革は、96年の衆議院総選挙で重要な争点となった。新進党の小沢は、同年8月に作られた細川元首相の中央省庁統廃合を含む行政改革案を総選挙の公約に含んだ。自民党も、橋本と水野清行政改革本部長らとの協議を通じて中央省庁の再編案を9月上旬までに纏めた。中央省庁再編は、「霞が関改革」の中核的な立場に置かれた。選挙では、自民党行政改革への積極性や消費税に対する新進党の姿勢の曖昧さもあって、前者が大勝した。


第二次橋本内閣は、高支持率や選挙公約、選挙後に総理府で置かれた行政改革会議で脆弱な権力基盤を補い、改革を進めた。ここでは、内閣官房組織の拡充による内閣機能の強化案や一府十省庁への編成の案を基に検討が進められた。背後には、秘書官を二名内閣に送り込んだ通商産業省の意図があったが。中央省庁再編と与党内執行部や官邸の権限の強化とはセットとして行われたことでもある。特に、前者に関する議論は各省庁の利害もあって混迷した。


省庁再編を進めた当時の政治家たちは、過度に細分化されていた縦割り行政を直すことを目的としていた。元々、省庁は明治から個々で採用を行ってきた。戦後からの人事院は、国家公務員試験や共通研修、給与の勧告を行うに限り、一括して国家公務員を採用することは無かった。官僚は所属先の省庁への帰属意識を強く持ち、議員と鉄の三角形を形作っていた。加えて、一府二十一省庁に細分化されていることが複雑化する政策課題への対応を妨げていると考えられていたこともある。そこで、近接分野を担当する省庁を統廃合して担当分野を広げる「大括り編成」が提唱された。省庁間調整にかかる時間や労力を減らすためだ。


橋本は、国家機能を「国家の存続」と「国富の確保・拡大」、「国民生活の保障」、「教育や国民文化の継承・醸成」の四分野に分けていた。97年8月の行政改革会議における集中審議では、橋本の意向に応じて文部科学技術省や国土開発・保全省の案が成立した。また、橋本は情報通信を産業として育てる旨を言った一方で独立行政委員会による通信・放送行政の監視も主張した。加えて本人は、環境庁の省への格上げも提案した。


中間報告書では、文部省と科学技術庁の統廃合、建設省運輸省の統合による「国土開発省」、農林水産省と河川局の統合による「国土保全省」が提唱された。また、郵政省の三分割と簡易保険事業の民営化、郵政事業のエイジェンシー化等も唱えられた。尚、郵政事業のエイジェンシー化は後の独立行政法人にも繋がる。行政改革会議では内閣総理大臣が座長として会議報告案審議に多大な影響力を持っていたのだ。
https://www.kantei.go.jp/jp/gyokaku/0905nakaho-01.html


9月の自民党総裁選では、中間報告への評価もあって橋本は無投票で再選された。だが、その直後の内閣再編にて本人は、ロッキード事件への関与が取り沙汰されていた佐藤孝行総務庁長官として入閣させた。旧渡辺派からの要求があったからだ。所謂「灰色高官」の入閣は、内閣支持率の大幅な低下や族議員らの中間報告に対する反対論、特に建設省・郵政省の解体への反発をもたらした。その結果、国土保全省案や情報通信産業に関する案、簡易保険民営化や郵政省分割の可能性が無くなった。


省庁再編に加えて、内閣機能の強化も主張された。その背景には明治以降の歴史がある。初期の内閣総理大臣には、大宰相主義の下に強い権限が与えられていた。だが、1885年の内閣官制によって、総理は各大臣の「同輩者の第一人者」とされた。各大臣が所轄省庁の業務を管理するという分担管理原則が置かれて、首相は閣議における発議権を持たないなど、リーダーシップに制約が掛かっていた。また、人事の主導権が派閥にあったことや内閣提出法案の作成権限の無さもあった。


内閣官房のような首相を補佐する体制の強化も検討された。従来の内閣官房の役割は、複数の省庁が関係する政策を調整することだった。そこで行政改革会議は、法律の上でも内閣官房が政策を立案することを正面から認めて、首相の立案を補佐させるように検討した。加えて、総理府経済企画庁などを統合して、省庁間の調整や総合的な企画立案戦略に当たる内閣府の設置も議論された。内閣府内にマクロ経済政策や予算編成の基本方針を決める経済財政諮問会議を設立することも話題となった。


90年代以降の国内外の環境の変化に政治が対応するために、官僚主導から政治主導への転換を志向する動きが強まった。他にも、住専薬害エイズ等の行政の失敗や公務員の非効率性の弊害、公務員の不祥事による国民の不信も行政改革に影響した。行政改革会議における内閣機能強化の議論は、中間報告までにほぼ決着して、最終報告荷も反映された。


同年12月では、行政改革会議によって最終報告が提出された。中央省庁は一府十二省庁に再編されることとなった。この枠組みが、後の中央省庁等改革基本法として法案化していったのだ。
https://www.kantei.go.jp/jp/gyokaku/report-final/index.html


尚、最終報告は臨調とは違って、政府規模の縮小ではなく応答性や課題解決能力を高めることを目的とした文書でもあった。それは「自律的な個人を基礎としつつ、より自由かつ公平な社会を形成するにふさわしい」政府が目指されたことを見ても明らかだ。政府の活動範囲がある程度縮小されていることを前提に残された課題領域に答えることを行政改革とする考え方を「新しい公共管理(New Public Management :NPM)」という。


ここで、最終報告の理念と目標について書いた冒頭を一部紹介する。これは政治の硬直化の打破と共に中曽根行革等の従来の行政改革との連続性を示そうとしたものである。

まず何よりも、肥大し硬直化した政府組織を改革し、重要な国家機能を有効に遂行するにふさわしく、簡素・効率的・透明な政府を実現する。

また、最終報告には「行政機能の減量、効率化等」と題された章が置かれて、行政見直しの基本的な視点は「官から民へ」、「国から地方へ」とされた。


第一に、政府現業部門である郵政・国有林野・造幣・印刷の民営化を想定した改革が唱えられた。行政の役割は政策立案と実施に分けて、現業部門以外の実施部門を担当する独立行政法人制度も提唱された。「行政機能の減量」という観点は中央省庁にも適用されている。行政のスリム化のために、具体的には政策立案機能と実施機能の組織的分離が主張されていた。これは、財政負担の軽減のための施策でもある。尚、省庁の配置については政策課題ごとの大括りな編成等が提唱されて、他省との総合調整及び審議会の整理統廃合も強く求められた。


また、分担管理原則は、国家目標の複雑化や内外環境の変化に即応して賢明な価値選択・政策展開を行っていく上でその限界ないし機能障害を露呈しつつあるとされた。そこで、総合的な政策判断・機動的な意思決定をなし得る行政システムの成立が求められた。省間調整の要となる内閣の機能強化や総理の政治基本方針を共有するための「内閣総理大臣の指導性」の明確化、「内閣及び内閣総理大臣の補佐・支援体制」の強化が主張された。

改革は始まった

1998年6月には橋本政権の行政改革中央省庁等改革基本法として立法化された。その中で内閣機能の強化への施策が実施された。それ自体が新しい重要な動きであることは以前から認識されていた。例えば、中央省庁再編等準備委員会参与を務めた行政学者の牛田朗氏は、首相の官僚に対する直接的な指揮監督権は政治主導に繋がる重要な変化と論じた。一方で、同氏は内閣が政策の統合や省庁間調整を担い、総務省が各省庁組織の管理を担うことができるのかを疑問視した。特に内閣については、担当大臣が首相の意向を基に官僚の頭越しに政策を実行できる余地が行政改革会議の最終報告書以降曖昧化したとも指摘された。
https://www.kantei.go.jp/jp/gyokaku/980303houan.html


内閣機能強化が最終報告書後の政治過程を生き残った原因は主に三点考えられる。一つ目は内閣機能の強化が政治部門の行政部門への全般的な優越権を確保する手段と見なされたことだ。そこで機能強化は、小さな政府」による行政部門の相対的弱体化を目指すものと位置付けられた。二つ目は官僚が組織防衛を目的としたことで省庁間調整に関わる権限の問題の優先順位が下がったことだ。組織再編をうまく回避できればそれには対応可能だからだ。三つ目は内閣と与党の関係が会議の最終報告における改革の直接的な対象で無かったことである。行革と選挙制度改革との関連性が当時ではあまり認識されていなかったのだ。


内閣官房の権限や組織の整備では、内閣官房副長官1人と内閣官房長官補2人が新設されて副長官補等が特別職となった。基本法第9条では行政組織の内外から人材を機動的に登用することが出来るような措置を講ずるとした旨が定められていた。内閣官房は「内閣の重要政策に関する基本的な方針」などに関して新たに企画立案を行うことになった。その結果か、内閣官房の立案件数(提出取りやめも含む)は平成12~18年の間で逓増して、官房組織の定員は1.8倍にまで増加した。また、少なくない業務は各省の併任・出向職員の依存で成り立つようにもなった。


副長官補は従来の内閣内政審議室長や内閣外政審議室長等の一般職が特別職に改められることで成立したものだ。ただし、橋本行革では高級官僚の任命権の在り方や「政治任用」職員の適用範囲といった課題への具体策が定まらなかった。


内閣総理大臣は主任大臣として、閣議における発議権を持った。発議権とは総理が首長として自己の国政に関する基本方針を発議して討論・決定を求めることを内閣法上明記したものである。予算の退行や重要法案の法案作成などの方針が首相によって発議されるようになったわけだ。


内閣総理大臣の補佐官の定数上限は内閣法改正によって決まった三人から五人になり、秘書官の定数も政令で決まるようになった。尚、首相補佐官制度は第三次行政改革審議会最終答申によって内閣官房に設置されたものではある。


1999年の小渕内閣下では、政府委員会制度の廃止の他に、副大臣制や大臣政務官制度、党首討論、政府特別補佐人制度、国家基本政策委員会の導入が決まった。また、必要に応じて政府参考人として本会議または委員会に官僚の出席・答弁を求めることも出来るようになった。官僚の答弁は、政府委員ではなく参考人としてのものとなった。加えて、閣僚数を18人に、衆議院定員数を比例区の削減によって450人へと減らす方針も採られた。これらは国会審議活性化法として法案化された。尚、同法案は英国の「クエスチョン・タイム」にならったものだ。


元々小沢一郎の構想では内閣と党の一体化を大臣・副大臣大臣政務官の形で与党の族議員を150~160人程度政権に入れることになっていた。加えて、官房長官を首席補佐官として官邸の政治リーダーシップを強化して、国会審議の活性化も狙った。2000年には衆議院の定数を480人に削減する法案や党首討論国家基本政策委員会が成立した。


2001年には、従来の総理府経済企画庁沖縄開発庁等が統合されることで内閣府が整備された。内閣府は、省庁の外に立つ別格の官庁として各省庁の企画立案・総合調整を務める。その中に、経済財政諮問会議や防災会議、総合科学技術会議男女共同参画会議といった重要会議が置かれた。これらの会議は、経済財政運営や予算編成等で大きな機能を持った。さらに重要政策に関わる行政各部の施策統一に向けた総合調整・企画立案を行う匿名担当大臣が置かれて、官房長官も事務に関与するようになった。


経済諮問会議について少し補足を加える。この会議は経済財政の観点から大半の政策を扱うことが出来て、事前調整を充分に経ることもなく総理の意向による結論を出すことが可能だった。橋本龍太郎は第151回国会参議院予算委員会における行政改革担当大臣としての答弁で、個別の審議会が別個に動くことで提言が重なってうまく使えなくなることを会議設置の理由とした。


内閣総理大臣の命令で政権の重要問題や法定事務を担当する内閣府特命担当大臣も法制化された。この大臣は内閣府にのみ設置されて、複数の省庁にまたがる重要政策の企画・立案と総合調整を担う。加えて関係省庁への勧告権も存在しており、内閣総理大臣の意向に沿って政策を進める権限がある。大臣の数は内閣法により基本14人以内と決まっている。第2次森改造内閣では男女共同参画等の7つの項目につき6名の特命担当大臣が任命された。


特命担当大臣とは別に、内閣総理大臣の判断で任命できる担当大臣という職位もある。これは内閣として緊急対応する必要がある政策等について、法改正手続きを経ずに、政策実現を急ぐ場合に内閣官房に設けられる。


他にも、同年に独立行政法人制度が成立した。これは行政活動を最小限にして市場原理を活用するための制度だ。二年前には独立行政法人通則法が出来ていたが、制度が成った年の4月には五七の法人が誕生した。同法人職員の身分については国家公務員の場合とそうでない場合とがある。基本法第36条ではこうある。

政府は、国民生活及び社会生活の安定などの公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業であって、(中略)一の主体に独占して行わせることが必要であるものについて、これを効率的かつ効果的に行わせるにふさわしい自律性、自発性及び透明性を備えた法人の制度を設けるものとする。

基本法ではこれらの独立行政法人に転換すべき検討分野についても示している。


1998年に国会に提案された行政情報公開法も施行された。基本法第50条第2項は重要な政策立案に当たって国民の意見を求める仕組みの整備を図るものとなっている。命令制定手続きあるいは計画策定手続きにおける国民からの意見聴衆が念頭に置かれている訳だ。


総務省には、郵政三事業を担う郵政事業庁が外局として2001年に設置された。そして、2003年にその所掌業務を担当する国営の郵政公社が成立した。尚、郵政公社は国家公務員の総定員法の対象から外れて、予算は全額自主運用となり国会の議決を不要とする。


独立行政法人(エイジェンシー)の成立は、政策実施と政策立案の分離を決定づけた。この分離は中間報告段階では「垂直的減量(アウトソーシング)」とされたが、垂直的という言葉に語弊があると考えられたためか最終報告段階では「行政機能の減量」とされた。一方で、垂直的減量を目指すことが長期的な国民の利益になると語られて、サービスの効率性や質、民が引き受けるか否かといったことは副次的な問題と語られるに至った。


そして、中央省庁の再編によって一府一二省庁体制が成立した。具体的には、厚生省と労働省の統合による厚生労働省総務庁・郵政省・自治省の統合による総務省、文部省と科学技術庁の統合による文部科学省運輸省建設省国土庁北海道開発庁の統合による国土交通省といった新たな省庁が誕生した。既存の省組織が拡大・温存された例では、通商産業省科学技術庁の一部の合併によって成立した経済産業省農林水産省、大蔵省から金融行政を除いて成立した財務省などがあった。尚、農水省の食糧庁は2003年に廃止されたが。加えて、大臣政務官制度や副大臣制も同時に導入された。


労働省と厚生省の統合は、労働行政を社会保障行政に吸収して、後者自体も生活保護行政と等値なものへと変質させる「ナショナルミニマム」化を目的で行われた。文部省と科学技術庁の統合は、国家戦略的研究分野を選択してそこに人的物的資源を集中する科学技術研究の重点化を目的としたものだ。また、当時の防衛庁国家公安委員会は安全保障と治安の総合化を目的に内閣府に属する特別な准省となった。一方で、生産に関わる省庁では公共投資の是正や国の関与・保護の縮小・撤退、自己責任原則の徹底が求められて、解体・統合は実行されなかった。


大括り化とアウトソーシングは省庁再編の鍵となった。既存組織の解体・統合による大括り化の特徴は、内閣機能の強化と結びついている点だ。文部科学省の成立がいい例だ。それは、人文・社会・自然科学を総合した科学技術の総合戦略や予算や人材等の資源配分の基本方針を創って、それを基に国家的重要プロジェクトの評価を行う総合科学技術会議に関する組織再編と結びつけて行われた。科学技術政策が内閣官房内閣府が責任を負う総合戦略という位置づけを得た。そのため文部科学省は、会議が作る総合戦略を踏まえた具体的な研究開発計画の策定・推定や各省庁間の調整を行うことが出来るようになった。


一方で、内閣や総合学術会議らが設定する総合戦略を文部科学省が調整省として、強力かつ重点的・差別的に国家プロジェクトとして推進するという科学技術・学術の在り方は、旧教育基本法科学技術基本法の原則に触れるものでもあった。科学技術や学術が国家戦略に従属した歴史を加味すると、やはりこの改革には問題が多かったとも言える。
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa201901/detail/1418474.htm
https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/a001.htm


また、国立大学の機能面では、独立行政法人化に等しい組織改革が目指された。2002年6月30日に発表された大学審議会の中間まとめは、教育研究についての評価体制の確立や人事・会計・財務の柔軟化を求めた中央省庁等改革基本法の影響でできた。そこでは、全学の教育研究目標・計画を学長が中心となって策定・公表して、その成果を導入することが求められた。学長は、所管大臣のように中期目標を定める権限を持ったのだ。学部自治は、独立行政法人に特有の手法の権限が学長に集中したことによる制約を課された。


アウトソーシングは、省庁が行ってきた企画・立案・調整機能と実施機能とを分離して、後者を独立行政法人へ転換する方向を示したものだった。実際に、2001年4月には57の法人が誕生した。また、小泉政権期の特殊法人改革によって、2003年10月には34法人が32の独立行政法人に移行した。その翌年には、国立大学法人法という個人法によって、もともと自律性の高かった国立大学が独立行政法人化した。


一方で、省庁組織の再編が、行政機能の減量・スリム化という観点と結びつけられて押し出された結果、総合化・効率化を目指す目的は後景に追いやられた。この政策の効果は、実施部門を新たにアウトソーシングするよりかは、業務の担い手を公務員でなくしたことに現れた。尤も、公務員数の削減はだいぶ前から意義を失っており、象徴的な意味しか無かったのだが。


この方針の帰結は、郵政三事業の取り扱いに象徴的にあらわれた。郵政事業庁郵政公社の取り扱いの帰結は、他の現業や研究教育等の非権力的サービス業務にも影響を与えた。実施部門の受け皿には、独立行政法人という非公務員タイプだけでなく、外局と公務員タイプの独立行政法人も用意されることとなった。ただ、行政機能の減量という点で一定の成果は見える。


内閣機能の強化と行政機能の減量と結びつけて既存組織の解体・統合が行われたことで、行政の在り方は中央省庁レベルや実務を行う施設のレベルにおいても大きな変容を見せた。そして、この動きは日本国憲法や法律の基本原理にも関わる問題でもある。この流れは、小泉政権以降の政権にも繋がる。

参考書籍・資料

福岡峻治「行政改革と日本官僚制の変容 -「官僚主導」から「政治主導」への転換とその課題-」(2007)
https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/363/1/genhou13-05.pdf
増島俊之「行政改革の現状と評価」(1999)
http://www.ppsa.jp/pdf/journal/pdf1999/1999-01-013.pdf
古谷雅彦「財政健全化としての行政改革」(2013)
https://www.jbaudit.go.jp/koryu/study/mag/pdf/j47d18.pdf
田中利幸「内閣機能の強化の現状と今後の課題」(2007)
https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2007pdf/20070112003.pdf
市橋克哉「中央省庁の再編問題」(1998)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/3/9/3_9_10/_pdf