愛花風

思考の先に本質を見る

90年代からの卒業(1)

2020年に安倍政権が退陣して、菅義偉官房長官が後継者になってから一年以上が経過した。菅氏は麻生・二階派だけでなく無派閥の議員からも支持されていて、「縦割り行政、既得権益、前例主義の打破」といったスローガンを掲げて、デジタル庁の創設による省庁再編を決めた。改革派と振る舞っていたせいか、本人が首相に就任した時には七割以上の支持率があった。

 

しかし実態はどうか。新型コロナは悪化の一途を辿り、ワクチン接種も他国に出遅れた。菅氏は長男のスキャンダルや総務省の接待の問題にはまともに説明しなかった。東京五輪に至っては「安心・安全な開催」とだけ言って開催を強行する始末だ。何よりも、本人には国家観が無く周りの人の意見を聞く気も無い。菅義偉に問題解決の意志が無いことは明らかだ。

 

かつて我が国は「経済一流・政治三流」と言われていた。平成の時代の日本人は政治をより良いものにしようと動いてきた筈だ。しかし、昨今の政治の腐敗凋落を見る限り、その運動が実を結んだとは言い難い。自民党の統治が崩壊しかかっている今、今後の政治の在り方を考え直す必要があるのではないだろうか。

 

本稿では菅政権が打破の対象としていた縦割り行政等の元となっていた自民党の構造や90年代以降に行われた行政改革を総括して、今後の政治の在り方を考えるものである。

【目次】

歴史的な日本のシステム

人間の行動は合理的選択と過去の経験や周囲の条件によって決まる。自民党を中心とした日本の政治は、単に与野党の判断だけでなく議会や行政官僚等の歴史的な形成によって成り立つのだ。政治が持つ内容や様々な圧力による変容を正確に理解しない限り、我が国の将来を見通すことはできないのである。

 

最初に、1955年に発表された自民党の立党宣言を一部引用する。

政治は国民のもの、即ちその使命と任務は、内に民生を安定せしめ、公共の福祉を増進し、外に自主独立の権威を回復し、平和の諸条件を調整確立するにある。

以上の文章は立党宣言の冒頭である。結党当初の自民党には国民のための政治を行い自主独立を達成する意志が存在していたことは明記しておきたい。

 

自民党システムとは何か。この言葉は、自民党を中心とした行政官僚や国会、社会党を始めとした野党を包括した全体的な統治の仕組みを指している。

 

ここで、行政官僚を中心に日本の統治システムが如何に形成されていったのかについて少し解説する。日本の官僚制は江戸時代から形成され始めていた。この時代では分権的な幕藩体制や近代的な行政官僚制の原型、農村の民主的な仕組みが形成されてきたのだ。国内の平和と経済的な繁栄が追求されてきた点で江戸と戦後は似ている。

 

武士は先頭集団としての側面を残しつつ、行政を担うようになった。筆算吟味といった試験による採用や年功的な能力主義と並行して、行政機関の協業・分業の体制が発達して、文書による管理や機能的な指揮命令系統を備えた階層的な組織が出来た訳だ。

 

日本の統治システムの特徴は分権性の高さと合意の重視だ。初期のころの江戸幕府は大名の改易や転封等で集権化を図っていたが、各藩の所領は幕府の藩政不干渉もあって安定化していった。その中で武士は支配する側の立場にあり農民から年貢を徴収していたが、土地の支配は一切行っていなかった。彼らは城下町に集住させられたことで土地から切り離されて、幕府から秩持米を受け取るサラリーマンのような存在となっていたのだ。幕臣は知行を与えられた場合でも分散的な所領を視察することさえ困難であった。社会を統合する程の土地所有勢力は対抗勢力の出現を抑える江戸幕府の施策によって現れなかったのだ。

 

18世紀前半、徳川吉宗の代にて足高の制が導入された。これは、幕府の役職に就任する者の家禄がその役高に達しない場合にその不足額を在職時に支給する制度である。これが武士階級内部での身分に囚われない人材登用を可能とした。さらに、武士以外の人間でも御家人の株を買うことで武士身分に仲間入りできるようにもなった。川路聖謨が一代で勘定奉行にまで昇進して幕府の外交を仕切ったことや、御家人の株を買った越前の農村の盲人を祖先に持つ勝海舟を見ても有能な人間が出世できたことは明らかだ。

 

足高制が導入された背景には幕府財政の恒常的な窮乏があった。江戸時代の初期には大規模な治水工事が行われて多くの農民が新田を得て自立していった。その勢いは、国土の荒廃を懸念した幕府が諸国山川掟を1666年に出した程だ。そこで農民たちが早稲の品種改良や農書の普及を進めてきたことで、伊達比べに代表されるように江戸の経済発展が進んだ。この経済発展の中で米の価格だけが下がっていく現象が起きた。吉宗の代ではそれが「米価安の諸色高」と言われた。この現象が米に依存する幕府や藩の財政を苦しめたのだ。

 

一方で農村では、名主・庄屋や年寄などを中心とした自治のための組織や制度が形成されていて、様々な社会関係の運営が自治によって行われていた。年貢の貢納についても内部でのやりくりや分担のルールは大方村方に任されていた。加えて定免法百姓一揆の一部合法化による増税拒否権が体制の安定化に繋がった。拒否権に基づく統治者と非統治者との「暗黙の了解」があったからだ。新田の開発や農耕技術の発展もあってか、18世紀半ばからは年貢の実質的な徴収率は下がっていった。

 

江戸時代における統治では丁寧な合意も重視された。村方の役職者は幕藩体制初期では有力家計の持ち回りだったが、江戸時代後期では各地で入れ札が導入された。この制度は役職に就く人を投票で決めるもので、場合によっては女性にも投票権があった。入れ札は都市でも、幕府の重要役職である目付の選考にも利用された。また、合議制と輪番制も重要だ。老中や勘定奉行には4~5人の、目付には「十人目付」がいて、これらの機関では全員の同意で物事が決まって実際の職務処理は輪番制で行われていた。これは権力の暴走を阻止するための仕組みだ。

 

明治時代では官僚制を中心とした統治システムが急速に構築された。明治憲法では官制大権が天皇にあり帝国議会は全く関与できなかった。官僚内閣制もこの時期から形成されており、内閣規定も首相の罷免権ないゆえに各省庁を統括する国務大臣が首相への拒否権を持った。帝国議会には内閣提出案の否決、軍部には統帥権の独立という拒否権が存在した。この分権的な仕組みは天皇を失政の責任から守るものであった。また、明治が幕を閉じようとする頃には官僚の資格任用と競争選抜といった仕組みが出来上がっていた。

 

昭和の初期には戦後の行政官僚制の原型が成り立っていた。各省単位の人事システムや大蔵省の中心的な役割などが成立した訳だ。戦前の行政官僚制では多くの点で官僚が主導した産業育成に伴い、国民の社会・経済的な動員の仕組みとして機能した。そんな中で政治的な意思決定は元老による斡旋と調停で進んだ。政党内閣や近衛文麿の新体制運動は政治的人脈に基づく憲法の運用の代替になれなかった。また、大東亜戦争では陸海軍の撤収の拒否権で戦線の野放図な拡大が起きて統一的な指導がなされなかった。

 

近代官僚制が急速に発達した背景に江戸時代の武士層からの人材を束ねる組織的な技術や豪農や商人を含む知的階層が存在したことは間違いない。明治時代から使われる意思決定の過程である稟議制も江戸時代のボトムアップ的な合意形成を基に生まれたと考えられる。

 

我が国の民主的なシステムには一つ欠けているものがあった。それは、国家全体の議会である。欧州史を見ると、本来議会は二種類の機能を持つことが分かる。一つは戦争や外交を行うための動員への同意を与えることだ。もう一つは、統治の主体的な機関としての意思決定を引き受ける機能だ。近代国家を構築する時にその対応に議会がどう関わるかが歴史の岐路だった。

 

例えば、絶対王政の元に官僚制と常備軍による強兵政策を採った仏国では王権と全国三部会との対立が続いた。軍事官僚システムを創った独国では議会は協賛機関に留まった。しかし英国の場合、国家運営の主導権が国王から議会下院へと移っていき、19世紀に選挙権が拡充されると議会下院が主権的な機関となった。議会は戦争遂行のための重税政策を容認した上に自分等自身への課税も厭わなかった。英国議会が統治の主体的な責任機関となった結果、リーダーシップの機能とボトムアップ型の民主的な機能が両立したのだ。

 

明治以降の日本では、議会は憲法上協賛機関であった。だが、実際には帝国議会は相当に重要な役割を果たしてきた。大正デモクラシーの時では疑似的な議院内閣制が出来た程だ。だが、帝国議会は主権的な存在になりえなかった。その背景には武士が社会的なリーダーとしての力を失ったことで議会の核となる勢力が存在しなかったことが考えられる。政友会が圧力を強める軍部に手を貸して民政党内閣を倒したことが議会の未成熟を示している。

 

日本の国会が統治の責任機関になれなかった結果、戦後の議会は大きな権限を持て余して行政官僚による支えを必要とした。これが自民党と官僚との分担体制に繋がるのである。日本の国会は憲法規定もあって自律性が極めて高く、政府には何の権限も無いのだ。欧州の主要国では20世紀後半に政府が議会内のプロセスに様々な権限を持つようになったにも関わらずだ。また、相対的に野党の影響力が大きくなり粘着性を備える国会の性格が重なって「党高政低」の状態が深刻になった。法案成立のゴールにたどり着くことが困難だったことは政府と与党との関係を作っている。加えて、参議院には予算と条約批准以外の全法案を否決できる拒否権があり、国対政治にも通じる。

 

そもそも何故リーダーシップが必要とされているのか。個人や集団は自分に都合のよいことを合理的に考える。皆が政治において平等な意思決定の権限を行使するだけでは、社会全体において「合理的」な腐敗や「合成の誤謬」といった問題が生じて物事の決定・実行が出来ない。そこで、国民から高いレベルの委任を取り付けて実行するリーダーシップが求められるのだ。日本の場合、自民党の派閥の仕組みやその領袖たちと支援役の大蔵省によって間接的ながらもリーダーシップは存在した。だがその反面、国会の主導性と一体である自由民主主義と実際の政治との乖離を招いた。

 

自民党システムのダイナミズム

大東亜戦争の敗戦後、GHQが大蔵省を中心とした省庁官僚制を戦前の体制の上で利用した。そのため敗戦直後の政治は行政官僚によって主導されていた。省庁が個別の設置法で根拠づけられる体制は1949年頃には確立していた。GHQの意向で国家公務員法が制定されたからだ。後の同法の改正では、各省の事務次官が政治任用の対象から外される。一方で国会は新憲法の定める役割を受け入れる準備を完全には整えていなかった。55年の国会法改正と自民党の成立による与党勢力の安定化までは運営ルールが不安定だった。

 

1955年の鳩山・緒方会談による保守合同自民党が誕生して、社会党との二大政党政治(いわゆる55年体制)が成立した。新憲法によって国民主権の原則が確立されたことで、自民党には重要な決定を下す権能が存在した。自民党は法律と予算という二つの重要なカギを握った。背景に同党が衆参両議会の過半数議席を確保してきたことはある。これが自民党と官僚との協働・分担体制に繋がるのだ。

 

一方で、自民党にも弱味がある。明治維新による社会的中核勢力の消滅に加えて大東亜戦争の敗戦で地方の名望家組織が大打撃を受けたことで、自民党の社会的基盤が脆弱だったのだ。戦前日本社会のリーダー格の人間が公職追放で消えたことで自由党等が人材不足に悩んだことが背景ではないだろうか。占領下での公職追放サンフランシスコ講和条約まで完全には解除されなかった。

 

社会基盤の脆弱性が招いたものとは、議員の個人後援会への依存だ。自民党の党員の大半は国会議員等の後援会を経由している。巨大な本部機構を抱える党の足腰である後援会は様々な情報ソースや民意のアンテナでもあり、議員の周りに集まった属人的集団故にイデオロギー面で柔軟だ。背景に中選挙区制はあった。殆どの選挙区にて自民党の公認候補が複数立つことになり、自前の投票基盤が必要になるからだ。

 

自民党のシステムが創られ始めた時期は1957年2月に成立した岸信介内閣と考えられる。岸は「党内八個師団」と称された旧民主党系もしくはその合流に参加した有力人物の率いる派閥軍団や石橋内閣のメンバーと共に「新長期経済計画」を決定した。その内容は官僚の強力な支援による重化学工業の発展や統制的な商工政策、賠償協定に基づく日本製品の東南アジアへの輸出等だった。岸が行政官僚を主導役とした背景にはGHQの統治に加えて、旧満州国での官僚主導による戦時高度成長の見果てぬ夢を戦後に求めたこともある。この構想は外貨不足や石炭偏重、何よりも政治闘争の高揚によって後回しとなったが。尚、同年7月の岸による内閣改造後、閣外になった池田勇人を総理にするための政策勉強会が出来て後の池田派「宏池会」が誕生する。

 

岸の後を継いだ池田勇人による「国民所得倍増計画」は、かつて「満州産業開発五か年計画」に深く関与し宏池会の初代事務局長になった田村敏雄や下村治ら大蔵省関係者、秘書の伊藤昌哉らによる研究会に支えられて実行された。背景に満州における官主導の経済政策への記憶があることは間違いない。一方で農業では省力化による専業農家の減少が問題になった。池田は64年に喉頭がん故に佐藤栄作を後継に指名して、翌年8月に病死した。

 

佐藤栄作政権では派閥の再編成が進んでいた。戦後の派閥の源流は大きく分けて吉田派と鳩山派とあった。自民党成立時の派閥は岸~佐藤政権の間に、河野派が中曽根派に、岸派が福田派に、佐藤派の周山会が田中派に引き継がれた。尚、石橋派は消滅。池田亡き後の宏池会前尾繁三郎そして大平正芳に引き継がれた。派閥の中身が整備されていったことが佐藤政権の特徴だ。

 

さて、岸信介池田勇人佐藤栄作といった官僚出身者の政権が続く中で、自民党では体制の確立が進んでいた。立党から約10年で政務調査会(以下、政調会)が整備されて、赤城総務会長による書簡を嚆矢として成立した法案の事前審査等の与党議員と省庁の実務レベルとの政策調整・意見交換も行われるようになり、族議員の萌芽が生まれた。さらに、政府と与党との二元体制も確立された。大蔵省は予算編成権を維持するも、自民党の分捕りゲームの浸透を許すような特別会計といった予算枠を認めるようになった。

 

政調会自民党ボトムアップ的な体制をよく表している。この会には省庁に対応するレベルの部会とその内部にある多種多様な小委員会が存在している。政策プロセスは小委員会から始まり、部会に上げられる。部会では意見交換と質疑応答が行われた後に部会長に決定が一任される。案件によっては、社会・経済的団体との対応のための調査会や特別委員会による審議もある。


その次の政調審議会では政調会長を中心に政調副会長や政審委員が参加して分野横断的な検討がなされる。そこには政情判断も加味されて、最後は政調会長の一任で事が決まる。最後の総務会では多数決が採られているが、同意の要求のために採決の拒否もある。重要な法案では三十名の総務もよる全員一致だって求められる。尚、それぞれの段階の決定方式は緩やかで、反対意見も取り入れられる。

 

自民党の派閥には主に二つの機能が存在する。一つは政策や情報面の互助組織としてだ。政治資金やポストの配分や田中・経世会の「総合病院化」等を見てもそれは明らかだ。袖領がポストと資金を握って内部の意思統一を行ったことで、自民党は一定の統率力を保つことが出来た。もう一つの機能は国会議員の育成だ。派閥の先輩議員は新人に国会や野党・官僚との付き合い方を教えてきた。

 

一昔前の派閥は特定の人を総理大臣にするために活動していた。前述した宏池会池田勇人がいい例だ。袖領は談合によって総理大臣や自民党総裁を決めていた。彼らは、ポストの交代が行われていた党全体の傾向とは真逆に非常に長い間その役職に就いていた。袖領の任期が長い原因は人事での生命与奪権の存在だ。所属派閥の窓口である党三役は袖領の推薦リストを基に決まる。つまり、派閥の内部は実質的な専制なのだ。

 

一方、政策決定では族議員の影響が大きい。これは個別の政策分野において部会や特別委員会、調査会に存在している。法令体系や政策情報、過去の実績と予算に関する緻密な討議が担当省庁と関連団体との間で行われるため、派閥の力学は直接的には働きにくい。族議員と行政官僚、関連団体との緊密な関係は鉄の三角形と言われた。この言葉自体は米国で発達したもので、族議員の代わりに議会の委員長が重要な役割を果たしている。

 

自民党全体の人事の特徴についても解説する。一つは当選回数に基づく年功序列である。初当選議員はまず国会対策委員会などで平委員として働く。二期目では副部会長を中心に就任し、政務次官に就くことがある。三期目前半には副委員長、後半には部会長に就任し始める。四期目でも部会長や調査会・特別委員会を含めた副ポストに、五期目では常任委員会の委員長に、六期目では大臣に就任していく。その過程の中で、先輩や官僚の評価で将来の幹部候補生がゆっくりと選抜されていく。

 

潜在的な競争主に小委員会での活動で表出していた。二期目以降の議員のうち、一定数は委員長になっておらず、就任回数も議員によって違う。小委員長への就任回数によって政策活動のレベルの差が生じている訳だ。また、競争は重要ポストへの就任状況にも表れる。総務局長には主流派閥でない限り好機はないが、副幹事長や政務副会長には非主流派閥の人でも一応就任できる。競争には、派閥の影響は確かにあったが次第に政調会での活動が重要性を持つようになった。


人事には後二点重要なことがある。一点は世襲。若くして議席を引き継いだ二世議員は、年功システムを卒業する時に活動できる期間を普通の議員に比べて長く持つことが出来る。もう一点は派閥袖領のポスト争いだ。ここでは敗者が派閥から追放されることが多い。

 

自民党のシステムは多元的な性格を持つ。政策決定までのプロセスは押し競饅頭のように多くの人が厳格な決まりもボスもなく複雑な駆け引きをして結論を形成しているのだ。鉄の三角形や部会もあって多元性は仕切られた形になり、意思決定は前年度までの実績を土台として何かを変化させる時には新しいものを追加していった。ボトムアップと緩やかなコンセンサスはその上で機能していたのだ。

 

また、池田内閣で出来た慣行の与党事前審査制に見られる政府と与党の二頭立ての体制も見逃せない。省庁内の課による法律の原案は部会における修正を加えて省内他部局、関連他省への合議に移る。再び与党に戻った法案は合意を集めて、省議へ進む。総務会での了承、政府による閣議決定で法案は国会に提出される。一方で、鉄の三角形が各分野ごとに対峙する縦割り体制が上に行くほど強くなっていた。政府部局と族議員との緊密な協働と政府と与党との対立はワンセットだった。

 

さて、1960年代後半~70年前後では通産省の特定産業振興臨時措置法や農水省の農地管理事業団法等の法案が不成立に終わった。それで官僚は自民党無しで法案を成立させることは出来ないことを知った。そこで彼らは自民党との棲み分けで、議員の利害を相当程度満たしつつ自分等の権益と影響力を維持する方針を決めた。ここから官僚制について解説する。

 

行政官僚は自民党と広範で緊密な協働体制を持つ。その様子は「官僚主導」といわれる程だった。官僚は自らの政調会で説明を行い、国会質疑において野党質問者から質問取りを行い、答弁作成で大臣の意思決定のお膳立てをする。役割と仕事量が多い故に、政策が官僚優位で進められやすい。これは国会審議の形骸化にも繋がった。主に総務会で根回しと交渉の上にできた政府提出法案が上程された後に議員が国会の審議に積極的に参加する理由はないからだ。


官僚たちは複雑な国会プロセスを潜り抜けたり時間に追われる大臣を利用して政策目標を達成するために徹夜のように働く。また、法案が衆議院を通過した後では与野党の基本的な合意が成立しており争点が殆ど残っていないこともある。

 

日本の官僚制は凝縮力と広がりのある組織・ネットワークとして構築されてきた。個別の設置法を基に権限と予算を持ち、大臣官房の秘書課を核に集権的で対外的な自律性を持った人事管理の体制で情報を蓄積してきた。大臣の補佐機構が貧弱だったことや内閣官房による総合調整、族議員の省庁応援団化がその表れだ。また、薬害エイズ事件では厚生省の生物製剤課課長が行政の不作為として有罪とされるも厚生大臣結果責任は問われなかった。この件を見ても、日本では大臣の役割が不明確で、官僚に委任された領域が大きいことが分かる。

 

1970~80年代では自民党システムが成熟した形で運営されていた。自民党は衆参両院にわたって国会の過半数を結党当初から1989年まで基本的に維持してきた。尤も、佐藤栄作政権の頃から進んだ農業の兼業化もあって自民党が農村票を失っていき70年代前半に生じた保革伯仲が、複雑な国会プロセスを越えて利益分配を約束する国対政治の所以ではあったが。対する社会党野党共闘の不自然さやイデオロギーの問題もあって、改憲阻止に必要な三分の一の議席数の確保に努めた。

 

ここで道路特定財源の問題について触れる。この問題は1953年に成立したガソリン税道路特定財源とする「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」に始まる。翌年からは第一次道路整備五ヵ年計画が始まっている。自動車関連の課税が財源を拡充する中、74年の田中角栄政権ではガソリン税等の四税に二度上乗せ分の暫定税率が設定された。これで成立した特定財源による道路整備予算システムは個人後援会の原動力となり、族議員の政治力も高めたのだ。

 

中曽根政権では政府の肥大した財政の改革が掲げられた。この時の行政改革ではケインズ主義を基に三公社の民営化や財政再建のために大蔵省の予算編成への枠当て等が行われた。本人の唱えた民活路線は公共投資を拡大して、各政策分野の族議員を育てて利益誘導政治を生んだ。この政治のもとに政策形成が80年代後半から徐々に政治主導へと変わっていき、そして後の行政改革にも通じるのだ。

 

大半の田中派議員による経世会を基盤とした竹下内閣では、派閥の事務総長会議が始められた。これは各派閥の事務総長が集まり造方向感を通じて政策の方向性を定めるものである。この背景には権力闘争で敵対者が排除されることが減少していって、「総主流派体制」という言葉が定着したことがある。田中角栄が闇将軍となろうとしたことで従来の主流派と非主流派との抗争が影を潜めるようになったからだ。経世会支配があれど、派閥間の共存が成立していたのだ。自民党には重要ポストの任期を細かく区切って持ち回すことになっていた。総裁が交代した場合の新総裁の任期は前代の残任期間となり、国政選挙において首相としての責任が問われるからだ。

 

執政中枢について。政権の中枢において、政治家には公式の法制度や個々の能力といった資源にも注目する。官僚には個々の能力だけでなく、所属組織の力や自律性も問われて交渉に影響を与える。与党政治家は大きな権限を持つも、凝集力を持つ官僚と提携している。それぞれのアクターの関係は複雑だ。

 

最後に行政官僚と政治家との関係について。前者は政策過程を緻密な積み上げ方式で進めて、自民党議員の利害を組み込んで原案を作成する。後者は党内意思決定のルールや官僚との協働体制が確立されてそれに乗った。これは議員立法が少ない大きな原因でもある。仏国や独国等では政治任命による政治的な官僚のグループを行政機構から分離させて政官関係を整えているが、日本ではその関係調整が行政機構自体に担われていた。

 

自民党は典型的な包括政党であり、あらゆる利害や考え方を取り入れる平等なシステムであった。一方で、リーダーシップの弱さは否めなかった。派閥の連合体制や三役等の党執行部の権限や首相の求心力の不明確さ、鉄の三角形と省庁間の割拠体制との連動、そして政府内手続きの行政性が大きな原因だ。派閥は個人の領有物から機関へと発展して、内部競争や非排除の論理が定着した。さらに、中選挙区制もあって政調会に繋がるボトムアップと一種の現場主義が次第に形成された。分権性とボトムアップのダイナミズム、野党や官僚との繋がりが自民党の強靭な競争力の基となったのだ。

 

政治改革を支えたもの

90年代以降の政治改革が始まった直接の契機は1989年だ。国内ではバブルによる地価高騰に苦しむ有権者リクルート事件に対する怒りや消費税導入によるねじれ国会の出現、バブル崩壊による地価・株価の急な下落、少子高齢化問題が起きた。国外では冷戦の終結による日米安保体制の変性、グローバル化による経済の越境やITの普及が進んだ。そんな中で自民党ボトムアップとコンセンサスを重視する体制や自民党との協調故か長期的なビジョンを見失った官僚、国対政治に浸る与野党の有様への危機感が募っていった訳だ。

 

政治改革の背景には、公共部門における様々な意思決定において合理的判断の出来る自律した個人が介入して政治権力を自らの責任で作り出そうとする発想があった。この傾向は高度経済成長が終わった70年代後半からあった。中洲一二によって提唱された「地方の時代」や大平正芳有識者研究会の「田園都市国家構想」といった動きの背景には従来の集権的で画一的な社会の在り方への疑問があった。80年代では学校の細かい規則が問題視されて、個性の尊重が語られるようになった。

 

ここで興味深い文章を紹介する。以下は1997年12月に提出された行政改革会議の最終報告の冒頭である。

今回の行政改革は、「行政」の改革であると同時に、国民が、明治憲法体制下にあって統治の客体という立場に慣れ、戦後も行政に依存しがちであった「この国の在り方」自体の改革であり、それは取りも直さず、この国を形作っている「われわれ国民」自身の在り方にかかわるものである。われわれ日本の国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し、日本国憲法のよって立つ精神によって、それを洗練し、「この国のかたち」を再構築することこそ、今回の行政改革の目標である。

真偽は兎も角、自律した個々による統治という考え方が足りず明治以降に整った制度が建前に留まっているという認識が行政改革の背景にあったのだ。この考え方は大東亜戦争の敗戦、戦後の自民党と官僚の密接連携で決定的なものになった。

 

90年代以降の政治改革は、政治の在り方のみならず国家と社会、公共と民間の関係も変えようとした実質的意味の憲法改正だったといえる。そもそも憲法とは法典だけでなく統治機構に関して定めることで、権力の所在と担い手、行使の範囲を確定させるルールの総称だ。法律や慣行で定められている統治のルールは憲法学において「実質的意味の憲法」と言われる。

 

政治改革の領域は、中央政府の改革中央政府以外の自律諸領域の改革と分けることが出来る。以下の1~3は前者、4~6は後者に該当する。

  1. 選挙制度改革
  2. 内閣機能強化
  3. 省庁再編
  4. 中央銀行改革
  5. 司法部門改革
  6. 地方分権改革

 

政治改革の原動力となった思想には近代主義があった。政治経済において個人の発想と行動を合理化して、西欧のように資本主義を基とした自由民主主義を達成しようとする考え方である。だが、戦後の日本における近代主義共産主義を含めた左派への志向と親近性があった。原因としては、軍国主義の時にマルクス主義を基に抵抗を続けた勢力がいたことや満州ソ連的な社会主義政策を打った岸信介の人脈が存在したことがあると考えられる。また、マルクス主義が政府統制や国家の役割、個人の解放、合理的な社会経済の運営において体系立った社会論理を持っていたこともある。

 

明治憲法にて自由主義の達成を可とした近代右派の考え方が日本になかった訳ではない。だが、戦時中の統制経済への不適合や戦後の近代主義者との不仲、戦前の一部肯定といったことがあって彼らは少数派に留まった。さらに、明治憲法天皇制を残した近代主義を不徹底として親英米をそのまま反共と見なす世代の登場が右派の存在感を下げた。後、明治体制を近代の証として理想化して、家族などの共同体や前近代からの秩序を重視する保守主義の考え方も忘れてはならない。

 

1955年の自民党成立は、近代右派(自由党)と保守主義(民主党)の合体、その後の潜在的対立を意味した。尚、近代左派では社会民主主義社会党右派と民社党の分裂もあって少数派に留まった。

 

近代右派の歴史について。戦後直後では戦前に教育を受けた近代右派のエリートが近代主義を担っていたが、50~60年代初頭にて丸山眞男を始めとした人物らの台頭によって左派の優位性が確保された。明治憲法体制との徹底的な対立が背景に存在したと考えられる。近代右派は反共主義や自民・社会両党の対立もあって保守派と一括りにされる傾向があった。

 

自民党政権が安定し始めた60年代半ばでは、吉田茂を戦後政治外交の礎として評価した高坂正堯中央公論編集者の粕谷一希のように戦後の自由民主主義や新憲法における個人の尊重を基に日本の繁栄の基盤を拡充しようとした人物らが台頭するようになった。彼らは近代右・左派と一線を画す存在で、特に高坂は佐藤政権にて楠田實首相秘書官の下で沖縄返還交渉など政策立案にも関与した。また、70年代末の大平研究会では香山健一と佐藤誠三郎が交じったように近代右派と保守主義が共同して政策運営に関与した。

 

中曽根政権では民主党系に近かったこともあってか保守主義が重視された。近代右派は制作過程の面で人的な断絶を受けることになり、牛尾治朗といった海外経験豊富な経済人らが後の政治改革を進めるようになった。尤も、中曽根自身は反共主義者渡辺恒雄と旧友であり新自由主義者加藤寛行政改革の中心的な人物に置いたことで近代右派との繋がりを持っていたが。

 

最後に、政治改革の土着化について。土着化とは当該領域における課題への対応策として、もしくは強い利害関心を持つアクターに受け入れられて成果が定着するために改革案が具体化されることを言う。改革を支持したアクター達は各領域にて前近代的な要素の存在を認識していたと考えられる。土着化は広範な改革にて、各領域の具体的な方向性の違いを招いたのである。

 

小沢一郎選挙制度改革

政治改革を語る上で欠かせない人物には小沢一郎がいる。小沢を中心として書かれた「日本改造計画」では、小選挙区制の導入や与党と内閣の一体化、首相官邸の機能強化、全国の三百の市への再編等が提唱された。対外政策については保護主義からの脱却や国連中心主義の実践などが唱えられた。ただし、小沢氏の主張は2003年の民由合併以降には新自由主義から社会民主主義的な方針に変わっている。残念ながら本人は日本改造計画を上書きするような著書を出したり自分の考えの変わった契機について明言していない。

 

小沢氏の来歴について簡単に解説する。本人は1969年の衆議院選挙で自民党議員として初当選を果たした後、72年に党の改革委員会にて財界・官僚依存からの脱却を主張して80年には「人間小沢佐重喜」への寄稿で比例を加味した小選挙区制の実現や政党法の設立を主張した。小沢自身は父の議席を引き継ぐ二世議員だったのだ。本人は田中角栄に師事して議運・国対族として経験を重ねた。木曜クラブの事務局長、総務局長を歴任してきたが、竹下登を首相とするための創政会、そして経世会の中核人物となる。89年8月には金丸信の後押しを基に自民党幹事長に、11月の竹下内閣では官房副長官を歴任した。

 

多くの人から権力側と思われている小沢は、主観の中では一貫として反権力の立場に立っていたと考えられる。まず、本人の自己分析を紹介する。以下は渡辺乾介氏の「あの人 ひとつの小沢一郎論」の一文だ。

私には体制批判の傾向があって、10代後半からオヤジのそういう面ばかり見てきたから、何かこう体制に甘んじたくないという思いを強くしていた

小沢は厳しい努力の末に有力者となった父の生き様に影響を受けていたのだ。

 

だが、父と似た境遇にいた田中角栄や金丸、竹下には功罪半ばのような評価を下していた。ここで五百旗頭他「小沢一郎」から少し引用する。

田中のおやじから始まって金丸さん、竹下さんと、みんな本当に教えられたし...けれども、私に言わせるとみんな反面教師ですね。...要するに田中先生は、戦後体制の一人だったということです。...けれども、体制を壊そうとした人ではない。僕は体制そのものを変えようとしている。だから、僕にとっては反面教師なんです。

小沢が史上最年少で自民党の幹事長になったのに離党して野党暮らしを選んだことも必然だった。小沢を最後まで理解出来ていたのは平野貞夫氏程度だ。

 

小沢の役割は選挙制度改革による政権交代可能な議会制民主主義を目指したという点で大きい。ここからは、1994年の政治改革四法で決まった選挙制度改革について説明する。

 

選挙制度改革が唱えられた原因には中選挙区制度への問題意識があった。日本の中選挙区制比例代表制や連記制を伴わなず単記非移譲制を持った独特のもので、比例制の高さや自民党単独過半数を得てきたこともあって政策競争が起きず、有権者向けのサービス競争やそれによる棲み分けが起きて政治腐敗の元となっているといった批判があった訳だ。そこで、小選挙区比例代表制は政党間の勢力変動による政権交代と二大政党制を伴う政党間競争が起こると期待されて始まった。また、選挙の公認権を握る幹部を中心に意思決定が進むことでサービス合戦による政治資金の抑制にも繋がると考えられた。政党助成制度がその傾向を加速させる。比例代表制は小政党を守るための激変緩和措置だった。

 

選挙制度改革の背景には国際政治経済環境の変化と政治腐敗・定数不均衡の深刻化があった。まず前者について。自由主義に基づく国際政治経済秩序を創った米国は70年代後半頃から日本などに相応の責任分担を求めるようになった。特に冷戦終結後には、地域紛争の抑制や旧共産圏国家の経済的自立を支えるために先進国の協調が求められるようになった。政治学者の佐々木毅は自著の「いま政治に何が可能か」にて、今の政治の新政治課題対策が不十分さであることを指摘した。小沢と金丸は国際環境の変化を重く受け止めていた故に政治改革を進めようとしたのだ。

 

後者では、自民党の主に農村を対象とした利益誘導政治や中選挙区制による政治資金の膨張への不満もあったが、何よりも投票価値の不公平さがあった。60年以降に定数不均衡訴訟がなされて、70年代半ばには議員一人当たりの人口格差が三倍までならばよしとする相場観が出来た。しかし、三倍の根拠の不明確さや衆議院定数増といったお手盛り的な不均衡是正への批判は強かった。

 

日本の政治に足りないものは応答能力か自浄能力かの問いは選挙制度改革、政治改革の全体像における大きな分岐点となった。改革の原動力を示す良い例は、88年12月に後藤田正晴を会長として創設された政治改革委員会が作成した「政治改革大綱」だ。この文書では中選挙区制による政治資金の膨張を抑えることのほか、小選挙区制中心への変革を「自民党の近代化」と位置付けていた。派閥の解消や族議員の問題の解決の他、議員候補者の選定では党公認候補者の決定における厳しい基準や非公認当選者への毅然とした対応措置が決められたのだ。ただし、応答能力、つまり政権交代による異なる選択肢の提示能力の問題については文書の準備が89年前半で冷戦後の世界像が不明確だったこともあり主張されなかった。選挙制度改革が応答能力強化の文脈で有権者に受け入れたかも怪しい。

 

また、同年の10月に初会合を開いた「政治改革フォーラム」の趣意書や90年4月に提出された第八回選挙制度審議会第一次答申で示された理想的な政治像には二つの特徴がある。一つは一般党員から党幹部までのピラミッド構造に支えられた有力な近代組織政党が多数存在する状態だ。もう一つは政党間での競争によって政権が生まれて、一貫性のある方針による政策を迅速に決定することだ。モデルはウェストミンスター型議院内閣制と考えられる。

 

当時考えられた選択肢は三つあった。

  1. 小選挙区(最も得票数の多い人が当選する故に大政党に有利で、政党間の勢力分布が変動しやすい。)
  2. 小選挙区比例代表並立制(小選挙区比例代表を別個にして、小政党にも一定の議席獲得の好機を与える。)
  3. 小選挙区比例代表併用制(議員選定は小選挙区での得票のみで決まり、議会における政党間の勢力分布は比例代表による。小政党に有利。)

比例代表で決まった議席数を小選挙区側が下回る場合は党のリストに従って当選者を出すが、逆の場合は超過議席ルールを置く場合がある。選挙制度審議会が推奨したものは2の方であった。

 

その中で小沢は90年2月の衆議院選挙勝利を基に自公民協調路線を取ることで政治改革に向けた野党工作を進めてきた。これは国対政治そのものでもあったが。そして、12月には小選挙区比例代表並立制の導入を柱とする政治改革基本要綱がまとめられて、翌年7月に政治改革関連三法案が国会に提出された。だが、小沢が東京都知事選における自公民相乗りの磯村尚徳の敗北の責任で幹事長を辞職したり6月に狭心症で倒れたこともあり法案は不成立に終わった。海部政権は衆議院解散を示唆して法案を成立させようとしたが、小沢派らの水面下での活動もあって結局内閣総辞職に至った。この背景には竹下登復権を狙う竹下派と小沢・金丸派との経世会内部の対立があった。政治改革関連三法案の時でも幹事長から経世会副会長に変わった小沢に対して、梶山国対委員長佐藤孝行総務会長ら竹下グループが廃案に向けて行動していたのだ。

 

宮沢喜一内閣にて改革反対派が勢いづく中、92年8月に金丸信東京佐川急便事件の件で経世会会長・自民党副総裁を辞職した。その過程で小沢グループと竹下グループの対立は決定的になって、経世会は竹下グループの小渕派と小沢・羽田の改革フォーラム21で分裂した。尚、これと同時期に自民党は単純小選挙区制の導入を決めている。尤も、当時の参議院にて与野党の勢力が逆転していたことや野党の賛同が得られないこと故に実質的な現状維持の案ではあったが。小沢派は連合の山岸章と組み、翌年3月の金丸の逮捕を機に自民党からの離党を決めた。

 

一方で野党は比例性の高い併用制や連用制を主張していた。社会党公明党は前者を、4月の政治改革推進協議会(民間政治臨調)が後者を主張していた。野党は元々小選挙区制に反対していたが、日本政治の応答能力の問題や連合の形成もあって野党統一による政権交代を期待する考えの高まり、そして金丸の逮捕における有権者の政治腐敗への怒りが政治改革を「異論なき正義」として野党の反対の方針を変えたのだ。この事件は政治資金規正の不十分さ故のもので、選挙制度改革に結びつくのはおかしいという意見も一理あるが。これは、単純小選挙区制を決めて政治改革自体を阻止しようとした自民党の方針も変えた。

 

93年6月には小沢・羽田派が通常国会での法案成立を断念した宮沢内閣への不信任案に賛成して、新生党を結成した。自民党解散総選挙にて衆議院での単独過半数に及ばず、与党の座を失った。そして、非自民連立の細川護熙内閣の下で94年1月に小選挙区比例代表並立制の導入が確定した。尚、細川氏が小沢との関係を重視したことも背景にはある。この経世会の権力闘争・分裂は自民党システムの解体にも繋がる。

(続く)

参考文献

福岡峻治『行政改革と日本官僚制の変容 「官僚主導」から「政治主導」への転換とその課題』(2006)

https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/363/1/genhou13-05.pdf