愛花風

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90年代からの卒業(2)

本稿では、中央省庁の再編や内閣機能の強化といった行政改革について説明する。行政改革は、橋本内閣時代の頃から本格的に行われた。この政策は、選挙制度改革にも通じる重要な改革である。


前回の記事

目次

行政改革前史

我が国における行政改革は、主に公務員の増大に歯止めをかけることを目的として行われた。これには二つの背景が存在すると考えられる。一つは、政府が担うべき多くの業務が実現されていないという認識だ。当時は、高度経済成長の恩恵を受けられずに弊害を食らう人が少なくなかった。もう一つは、公務員を身分として捉える戦前的な考え方が残っていたこともある。解雇の恐れが無く、時間的なゆとりや退職後の年金に恵まれているといった印象が真偽を問わず根強かった。


池田勇人内閣の時には、第一次臨時行政調査会(第一次臨調)という諮問機関が霞が関の外部に設置されて、行政部門の課題が提示された。この時には、各省の局の削減と国家公務員に関する総定員法が成立した。同法では政治の役割は拡充せず、公務員給与の水準を引き上げつつ行政部門の効率を高めることが目的とされた。また、1965年では行政監理委員会も設置された。


鈴木善幸政権下にて、81年~83年まで第二次臨調が成立した。中曽根政権では、政府の活動範囲の抑制やそれによる財政負担軽減を目的に三公社民営化や老人医療費有料化、総務庁の設置、内部組織編成権の政令移管、内部部局再編、定数削減、行政手続法・情報公開法の作成などが行われた。82年度の予算編成ではゼロ・シーリングが、83年以降はマイナス・シーリングが用いられた。この背景に、70年代のオイルショックや高度経済成長の終了による財政逼迫への懸念や主要先進国における行政改革があったことは間違いない。


臨調行革の特徴は、行政管理上の改革のみならず行政組織再編や政府役割縮小による経費・歳出削減や経済構造調整のための規制改革を包摂したものである。尚、行政手続法や情報公開法は行政透明化を図る目的で制定されたものだ。また、第二次臨調ではフォローアップのために審議会が活用されていた。尚、当時は既存の1府12省体制を前提として国土開発行政関係3庁の統合、行政組織規制の政令化等が提言されたものだった。


審議会の在り方は行政改革の企画立案の基本となった。まず内閣は有識者からなる臨時の審議機関を設ける。その機関から出された企画案が政府に提出された時に内閣は閣議決定を行う。行政改革関連法案は臨時国会や特別委員会にて審議されて、内閣は答申実施を監視する機関を設ける。


90年代では、行政改革の流れを経由して政治基盤構造や政界と財界との繋がり、政党構造等の再編成が主張された。国会審議の形骸化を背景として誕生した細川護熙連立政権は、小選挙区制等だけではなく、第三次臨時行政改革推進審議会の提言を基に規制緩和地方分権化を進めた。


同審議会の最終答申は中央省庁の再編を「できるだけ速やかに検討を進めるべき課題」とした。これは、既存の府省体制の中で公共性を限定・変更する従来の改革路線から既存組織を破壊して、大括りの新体制を築くことで公共性からの撤退を実現する路線へと「飛躍」した内容だ。その背景には、「社会主義体制」の崩壊や市場のグローバル化といった国際環境の変化に対する経済界の危機意識があった。


細川護熙日本新党代表は当時、「結党宣言」や「日本新党:責任ある変革」により、党の政治理念やプログラム、姿勢を明らかにした。自民党を除いた細川連立政権による政治改革四法は、その後の政治改革にも繋がる。


自らを「政治改革政権」とした細川内閣だったが、政治改革における連立与党の摩擦は小さくなかった。社会党選挙制度改革に反対したり、武村正義官房長官が改革方法にて内閣の方針と対立したことがあったからだ。政治改革自体は、1994年1月29日に細野と河野との合意が出来たことで成立した。だが、細川が合意の数日後に突然表明した「国民福祉税」構想への反発によって、連立与党の対立は決定的になった。細川政権が当初目指していた所得税減税の財源が確定しなかったことが背景にあった。


細川内閣は、武村官房長官の更迭による内閣改造の失敗、佐川急便疑惑によって総辞職した。その後、政策協議の一致羽田孜内閣が誕生した。しかしその後、新生党日本新党民社党を中心とした新会派「改新」が成立した。民社党委員長の大内啓伍小沢一郎、細川らが小選挙区制への対応と社会党への対抗を目指して、以前から計画していたのだ。だが、新会派に怒った社会党は連立政権から離脱した。


社会党は当初、連立政権への復帰を考えていた。羽田首相も、総辞職と引き換えに社会党を連立与党に戻した後で再登板しようとしていた。背景には小沢の説得もあるが。だが、社会党の左派は自民党の羽田・竹下派らと組んで村山富市連立政権を作ろうとしていた。その結果、連立与党と社会党との政策協議は決裂した。羽田は、再登板の可能性に期待して総辞職した。


当初の小沢は、羽田の再登板に反対するため社会党との政策協議を拒んでいた。一方の自民党は、村山富市を首相とすることで連立政権をつくる方針を定めていた。尤も、接触自体は細川政権退陣の頃から始まっていたが。その結果、自民・社会・さきがけ三党による連立政権が決まった。


自民・社会党首会談の後に、小沢は政策協議を再開した。その本人の狙いは、首相指名選挙を利用した自民・社会の分裂である。実際に、小沢は海部俊樹首相候補として指名選挙に挑んだ。海部は自民党を離党した上に中曾根や渡辺美智雄から支持を得るも、村山には負けたが。


村山内閣発足後、新生党公明党日本新党民社党らは「改革推進評議会」を設立して、後に統一会派「改革」と新党準備会を立ち上げた。そして94年12月、各党が解散して「新進党」が立党された。公明党の場合は、95年参議院選挙で改選を迎える参議院議員衆議院議員以外が残留したが。実際に、同党は1995年の6月と10月に行政改革法案を国会に提出した。


新進党は海部を代表として、「たゆまざる改革」を綱領に示した。羽田と小沢との確執や公明党の存続といった不安材料はあったが、それでも自民党にとっては脅威となった。細川や海部、羽田といった「選挙の顔」が新進党に揃っていたからだ。これは、政党間競争を進める小選挙区制にて有利に働く。そんな中で、自民党の新たな総裁として橋本龍太郎が登場したのだった。

橋本行革の軌跡

橋本龍太郎が首相になった原因は、1995年9月の自民党総裁選で当選したことにある。河野洋平総裁の頃では、94年9月の参議院愛知再選挙やその翌年4月の統一地方選挙の戦績が悪いことがあった。そして、7月の参議院選挙で自民党比例区議席数や各得票数で新進党に負けた。そこで、国民の人気が高かった橋本が自民党の顔として期待されるようになったのだ。総裁選の時に河野支持の小渕派三塚派から造反者が出てきたこともあって、橋本は総裁になった。


1996年1月、橋本は村山から政権の禅譲を受けたことで内閣を結成した。橋本は就任早々に、内閣の使命として「変革」と「創造」を掲げて21世紀の新たなシステムを創る目標を示した。この背景には、本人が政務調査会長だった頃に「二十一世紀委員会」を設置して、自民党の基本政策を検討してきた事がある。その他にも、73年から行財政特別委員会の副委員長や80年から六年間行財政調査会の会長を務めたこともある。第三次中曽根内閣では、本人は運輸大臣として国鉄民営化関連法案を成立させた。


住専や沖縄米軍基地の利用・縮小といった問題もあって、橋本はすぐに改革を始めることが出来なかった。だがそれでも、自民党社会党のくびきから解放されて政策を行うことが出来たことの影響は大きかった。


橋本内閣は、1996年に置いた行政改革会議を基に行政改革プログラムを制定した。同年6月中旬に、行政改革を中心とした「橋本ビジョン」が「橋本行革の基本方向について」として自民党から発表された。橋本行革の場合は、臨時行革の時とは違って行政管理が注目されていた。


96年に橋本は所信表明演説にて行政改革、財政構造改革、経済構造改革社会保障構造改革、金融システム改革、教育改革(翌年1月に発表)を訴えていた。その背景には、96年10月の総選挙における小沢一郎の存在があった。当時の小沢は、二大政党制を軸とする政権交代システムを考えていて、そのために新進党を立党した。そんな小沢と橋本は5つの約束を交わしていた。その一つに、「大胆な行政改革地方分権規制撤廃を断行し、国と地方の経費を二十兆円以上減らします」という文言がある。その上で、中央省庁の十省への再編成や国家公務員の25%削減、高級官僚の半減が提唱された。
https://www.jsdi.or.jp/~y_ide/syo_ozawa.htm


行政改革は、96年の衆議院総選挙で重要な争点となった。新進党の小沢は、同年8月に作られた細川元首相の中央省庁統廃合を含む行政改革案を総選挙の公約に含んだ。自民党も、橋本と水野清行政改革本部長らとの協議を通じて中央省庁の再編案を9月上旬までに纏めた。中央省庁再編は、「霞が関改革」の中核的な立場に置かれた。選挙では、自民党行政改革への積極性や消費税に対する新進党の姿勢の曖昧さもあって、前者が大勝した。


第二次橋本内閣は、高支持率や選挙公約、選挙後に総理府で置かれた行政改革会議で脆弱な権力基盤を補い、改革を進めた。ここでは、内閣官房組織の拡充による内閣機能の強化案や一府十省庁への編成の案を基に検討が進められた。背後には、秘書官を二名内閣に送り込んだ通商産業省の意図があったが。中央省庁再編と与党内執行部や官邸の権限の強化とはセットとして行われたことでもある。特に、前者に関する議論は各省庁の利害もあって混迷した。


省庁再編を進めた当時の政治家たちは、過度に細分化されていた縦割り行政を直すことを目的としていた。元々、省庁は明治から個々で採用を行ってきた。戦後からの人事院は、国家公務員試験や共通研修、給与の勧告を行うに限り、一括して国家公務員を採用することは無かった。官僚は所属先の省庁への帰属意識を強く持ち、議員と鉄の三角形を形作っていた。加えて、一府二十一省庁に細分化されていることが複雑化する政策課題への対応を妨げていると考えられていたこともある。そこで、近接分野を担当する省庁を統廃合して担当分野を広げる「大括り編成」が提唱された。省庁間調整にかかる時間や労力を減らすためだ。


橋本は、国家機能を「国家の存続」と「国富の確保・拡大」、「国民生活の保障」、「教育や国民文化の継承・醸成」の四分野に分けていた。97年8月の行政改革会議における集中審議では、橋本の意向に応じて文部科学技術省や国土開発・保全省の案が成立した。また、橋本は情報通信を産業として育てる旨を言った一方で独立行政委員会による通信・放送行政の監視も主張した。加えて本人は、環境庁の省への格上げも提案した。


中間報告書では、文部省と科学技術庁の統廃合、建設省運輸省の統合による「国土開発省」、農林水産省と河川局の統合による「国土保全省」が提唱された。また、郵政省の三分割と簡易保険事業の民営化、郵政事業のエイジェンシー化等も唱えられた。尚、郵政事業のエイジェンシー化は後の独立行政法人にも繋がる。行政改革会議では内閣総理大臣が座長として会議報告案審議に多大な影響力を持っていたのだ。
https://www.kantei.go.jp/jp/gyokaku/0905nakaho-01.html


9月の自民党総裁選では、中間報告への評価もあって橋本は無投票で再選された。だが、その直後の内閣再編にて本人は、ロッキード事件への関与が取り沙汰されていた佐藤孝行総務庁長官として入閣させた。旧渡辺派からの要求があったからだ。所謂「灰色高官」の入閣は、内閣支持率の大幅な低下や族議員らの中間報告に対する反対論、特に建設省・郵政省の解体への反発をもたらした。その結果、国土保全省案や情報通信産業に関する案、簡易保険民営化や郵政省分割の可能性が無くなった。


省庁再編に加えて、内閣機能の強化も主張された。その背景には明治以降の歴史がある。初期の内閣総理大臣には、大宰相主義の下に強い権限が与えられていた。だが、1885年の内閣官制によって、総理は各大臣の「同輩者の第一人者」とされた。各大臣が所轄省庁の業務を管理するという分担管理原則が置かれて、首相は閣議における発議権を持たないなど、リーダーシップに制約が掛かっていた。また、人事の主導権が派閥にあったことや内閣提出法案の作成権限の無さもあった。


内閣官房のような首相を補佐する体制の強化も検討された。従来の内閣官房の役割は、複数の省庁が関係する政策を調整することだった。そこで行政改革会議は、法律の上でも内閣官房が政策を立案することを正面から認めて、首相の立案を補佐させるように検討した。加えて、総理府経済企画庁などを統合して、省庁間の調整や総合的な企画立案戦略に当たる内閣府の設置も議論された。内閣府内にマクロ経済政策や予算編成の基本方針を決める経済財政諮問会議を設立することも話題となった。


90年代以降の国内外の環境の変化に政治が対応するために、官僚主導から政治主導への転換を志向する動きが強まった。他にも、住専薬害エイズ等の行政の失敗や公務員の非効率性の弊害、公務員の不祥事による国民の不信も行政改革に影響した。行政改革会議における内閣機能強化の議論は、中間報告までにほぼ決着して、最終報告荷も反映された。


同年12月では、行政改革会議によって最終報告が提出された。中央省庁は一府十二省庁に再編されることとなった。この枠組みが、後の中央省庁等改革基本法として法案化していったのだ。
https://www.kantei.go.jp/jp/gyokaku/report-final/index.html


尚、最終報告は臨調とは違って、政府規模の縮小ではなく応答性や課題解決能力を高めることを目的とした文書でもあった。それは「自律的な個人を基礎としつつ、より自由かつ公平な社会を形成するにふさわしい」政府が目指されたことを見ても明らかだ。政府の活動範囲がある程度縮小されていることを前提に残された課題領域に答えることを行政改革とする考え方を「新しい公共管理(New Public Management :NPM)」という。


ここで、最終報告の理念と目標について書いた冒頭を一部紹介する。これは政治の硬直化の打破と共に中曽根行革等の従来の行政改革との連続性を示そうとしたものである。

まず何よりも、肥大し硬直化した政府組織を改革し、重要な国家機能を有効に遂行するにふさわしく、簡素・効率的・透明な政府を実現する。

また、最終報告には「行政機能の減量、効率化等」と題された章が置かれて、行政見直しの基本的な視点は「官から民へ」、「国から地方へ」とされた。


第一に、政府現業部門である郵政・国有林野・造幣・印刷の民営化を想定した改革が唱えられた。行政の役割は政策立案と実施に分けて、現業部門以外の実施部門を担当する独立行政法人制度も提唱された。「行政機能の減量」という観点は中央省庁にも適用されている。行政のスリム化のために、具体的には政策立案機能と実施機能の組織的分離が主張されていた。これは、財政負担の軽減のための施策でもある。尚、省庁の配置については政策課題ごとの大括りな編成等が提唱されて、他省との総合調整及び審議会の整理統廃合も強く求められた。


また、分担管理原則は、国家目標の複雑化や内外環境の変化に即応して賢明な価値選択・政策展開を行っていく上でその限界ないし機能障害を露呈しつつあるとされた。そこで、総合的な政策判断・機動的な意思決定をなし得る行政システムの成立が求められた。省間調整の要となる内閣の機能強化や総理の政治基本方針を共有するための「内閣総理大臣の指導性」の明確化、「内閣及び内閣総理大臣の補佐・支援体制」の強化が主張された。

改革は始まった

1998年6月には橋本政権の行政改革中央省庁等改革基本法として立法化された。その中で内閣機能の強化への施策が実施された。それ自体が新しい重要な動きであることは以前から認識されていた。例えば、中央省庁再編等準備委員会参与を務めた行政学者の牛田朗氏は、首相の官僚に対する直接的な指揮監督権は政治主導に繋がる重要な変化と論じた。一方で、同氏は内閣が政策の統合や省庁間調整を担い、総務省が各省庁組織の管理を担うことができるのかを疑問視した。特に内閣については、担当大臣が首相の意向を基に官僚の頭越しに政策を実行できる余地が行政改革会議の最終報告書以降曖昧化したとも指摘された。
https://www.kantei.go.jp/jp/gyokaku/980303houan.html


内閣機能強化が最終報告書後の政治過程を生き残った原因は主に三点考えられる。一つ目は内閣機能の強化が政治部門の行政部門への全般的な優越権を確保する手段と見なされたことだ。そこで機能強化は、小さな政府」による行政部門の相対的弱体化を目指すものと位置付けられた。二つ目は官僚が組織防衛を目的としたことで省庁間調整に関わる権限の問題の優先順位が下がったことだ。組織再編をうまく回避できればそれには対応可能だからだ。三つ目は内閣と与党の関係が会議の最終報告における改革の直接的な対象で無かったことである。行革と選挙制度改革との関連性が当時ではあまり認識されていなかったのだ。


内閣官房の権限や組織の整備では、内閣官房副長官1人と内閣官房長官補2人が新設されて副長官補等が特別職となった。基本法第9条では行政組織の内外から人材を機動的に登用することが出来るような措置を講ずるとした旨が定められていた。内閣官房は「内閣の重要政策に関する基本的な方針」などに関して新たに企画立案を行うことになった。その結果か、内閣官房の立案件数(提出取りやめも含む)は平成12~18年の間で逓増して、官房組織の定員は1.8倍にまで増加した。また、少なくない業務は各省の併任・出向職員の依存で成り立つようにもなった。


副長官補は従来の内閣内政審議室長や内閣外政審議室長等の一般職が特別職に改められることで成立したものだ。ただし、橋本行革では高級官僚の任命権の在り方や「政治任用」職員の適用範囲といった課題への具体策が定まらなかった。


内閣総理大臣は主任大臣として、閣議における発議権を持った。発議権とは総理が首長として自己の国政に関する基本方針を発議して討論・決定を求めることを内閣法上明記したものである。予算の退行や重要法案の法案作成などの方針が首相によって発議されるようになったわけだ。


内閣総理大臣の補佐官の定数上限は内閣法改正によって決まった三人から五人になり、秘書官の定数も政令で決まるようになった。尚、首相補佐官制度は第三次行政改革審議会最終答申によって内閣官房に設置されたものではある。


1999年の小渕内閣下では、政府委員会制度の廃止の他に、副大臣制や大臣政務官制度、党首討論、政府特別補佐人制度、国家基本政策委員会の導入が決まった。また、必要に応じて政府参考人として本会議または委員会に官僚の出席・答弁を求めることも出来るようになった。官僚の答弁は、政府委員ではなく参考人としてのものとなった。加えて、閣僚数を18人に、衆議院定員数を比例区の削減によって450人へと減らす方針も採られた。これらは国会審議活性化法として法案化された。尚、同法案は英国の「クエスチョン・タイム」にならったものだ。


元々小沢一郎の構想では内閣と党の一体化を大臣・副大臣大臣政務官の形で与党の族議員を150~160人程度政権に入れることになっていた。加えて、官房長官を首席補佐官として官邸の政治リーダーシップを強化して、国会審議の活性化も狙った。2000年には衆議院の定数を480人に削減する法案や党首討論国家基本政策委員会が成立した。


2001年には、従来の総理府経済企画庁沖縄開発庁等が統合されることで内閣府が整備された。内閣府は、省庁の外に立つ別格の官庁として各省庁の企画立案・総合調整を務める。その中に、経済財政諮問会議や防災会議、総合科学技術会議男女共同参画会議といった重要会議が置かれた。これらの会議は、経済財政運営や予算編成等で大きな機能を持った。さらに重要政策に関わる行政各部の施策統一に向けた総合調整・企画立案を行う匿名担当大臣が置かれて、官房長官も事務に関与するようになった。


経済諮問会議について少し補足を加える。この会議は経済財政の観点から大半の政策を扱うことが出来て、事前調整を充分に経ることもなく総理の意向による結論を出すことが可能だった。橋本龍太郎は第151回国会参議院予算委員会における行政改革担当大臣としての答弁で、個別の審議会が別個に動くことで提言が重なってうまく使えなくなることを会議設置の理由とした。


内閣総理大臣の命令で政権の重要問題や法定事務を担当する内閣府特命担当大臣も法制化された。この大臣は内閣府にのみ設置されて、複数の省庁にまたがる重要政策の企画・立案と総合調整を担う。加えて関係省庁への勧告権も存在しており、内閣総理大臣の意向に沿って政策を進める権限がある。大臣の数は内閣法により基本14人以内と決まっている。第2次森改造内閣では男女共同参画等の7つの項目につき6名の特命担当大臣が任命された。


特命担当大臣とは別に、内閣総理大臣の判断で任命できる担当大臣という職位もある。これは内閣として緊急対応する必要がある政策等について、法改正手続きを経ずに、政策実現を急ぐ場合に内閣官房に設けられる。


他にも、同年に独立行政法人制度が成立した。これは行政活動を最小限にして市場原理を活用するための制度だ。二年前には独立行政法人通則法が出来ていたが、制度が成った年の4月には五七の法人が誕生した。同法人職員の身分については国家公務員の場合とそうでない場合とがある。基本法第36条ではこうある。

政府は、国民生活及び社会生活の安定などの公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業であって、(中略)一の主体に独占して行わせることが必要であるものについて、これを効率的かつ効果的に行わせるにふさわしい自律性、自発性及び透明性を備えた法人の制度を設けるものとする。

基本法ではこれらの独立行政法人に転換すべき検討分野についても示している。


1998年に国会に提案された行政情報公開法も施行された。基本法第50条第2項は重要な政策立案に当たって国民の意見を求める仕組みの整備を図るものとなっている。命令制定手続きあるいは計画策定手続きにおける国民からの意見聴衆が念頭に置かれている訳だ。


総務省には、郵政三事業を担う郵政事業庁が外局として2001年に設置された。そして、2003年にその所掌業務を担当する国営の郵政公社が成立した。尚、郵政公社は国家公務員の総定員法の対象から外れて、予算は全額自主運用となり国会の議決を不要とする。


独立行政法人(エイジェンシー)の成立は、政策実施と政策立案の分離を決定づけた。この分離は中間報告段階では「垂直的減量(アウトソーシング)」とされたが、垂直的という言葉に語弊があると考えられたためか最終報告段階では「行政機能の減量」とされた。一方で、垂直的減量を目指すことが長期的な国民の利益になると語られて、サービスの効率性や質、民が引き受けるか否かといったことは副次的な問題と語られるに至った。


そして、中央省庁の再編によって一府一二省庁体制が成立した。具体的には、厚生省と労働省の統合による厚生労働省総務庁・郵政省・自治省の統合による総務省、文部省と科学技術庁の統合による文部科学省運輸省建設省国土庁北海道開発庁の統合による国土交通省といった新たな省庁が誕生した。既存の省組織が拡大・温存された例では、通商産業省科学技術庁の一部の合併によって成立した経済産業省農林水産省、大蔵省から金融行政を除いて成立した財務省などがあった。尚、農水省の食糧庁は2003年に廃止されたが。加えて、大臣政務官制度や副大臣制も同時に導入された。


労働省と厚生省の統合は、労働行政を社会保障行政に吸収して、後者自体も生活保護行政と等値なものへと変質させる「ナショナルミニマム」化を目的で行われた。文部省と科学技術庁の統合は、国家戦略的研究分野を選択してそこに人的物的資源を集中する科学技術研究の重点化を目的としたものだ。また、当時の防衛庁国家公安委員会は安全保障と治安の総合化を目的に内閣府に属する特別な准省となった。一方で、生産に関わる省庁では公共投資の是正や国の関与・保護の縮小・撤退、自己責任原則の徹底が求められて、解体・統合は実行されなかった。


大括り化とアウトソーシングは省庁再編の鍵となった。既存組織の解体・統合による大括り化の特徴は、内閣機能の強化と結びついている点だ。文部科学省の成立がいい例だ。それは、人文・社会・自然科学を総合した科学技術の総合戦略や予算や人材等の資源配分の基本方針を創って、それを基に国家的重要プロジェクトの評価を行う総合科学技術会議に関する組織再編と結びつけて行われた。科学技術政策が内閣官房内閣府が責任を負う総合戦略という位置づけを得た。そのため文部科学省は、会議が作る総合戦略を踏まえた具体的な研究開発計画の策定・推定や各省庁間の調整を行うことが出来るようになった。


一方で、内閣や総合学術会議らが設定する総合戦略を文部科学省が調整省として、強力かつ重点的・差別的に国家プロジェクトとして推進するという科学技術・学術の在り方は、旧教育基本法科学技術基本法の原則に触れるものでもあった。科学技術や学術が国家戦略に従属した歴史を加味すると、やはりこの改革には問題が多かったとも言える。
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa201901/detail/1418474.htm
https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/a001.htm


また、国立大学の機能面では、独立行政法人化に等しい組織改革が目指された。2002年6月30日に発表された大学審議会の中間まとめは、教育研究についての評価体制の確立や人事・会計・財務の柔軟化を求めた中央省庁等改革基本法の影響でできた。そこでは、全学の教育研究目標・計画を学長が中心となって策定・公表して、その成果を導入することが求められた。学長は、所管大臣のように中期目標を定める権限を持ったのだ。学部自治は、独立行政法人に特有の手法の権限が学長に集中したことによる制約を課された。


アウトソーシングは、省庁が行ってきた企画・立案・調整機能と実施機能とを分離して、後者を独立行政法人へ転換する方向を示したものだった。実際に、2001年4月には57の法人が誕生した。また、小泉政権期の特殊法人改革によって、2003年10月には34法人が32の独立行政法人に移行した。その翌年には、国立大学法人法という個人法によって、もともと自律性の高かった国立大学が独立行政法人化した。


一方で、省庁組織の再編が、行政機能の減量・スリム化という観点と結びつけられて押し出された結果、総合化・効率化を目指す目的は後景に追いやられた。この政策の効果は、実施部門を新たにアウトソーシングするよりかは、業務の担い手を公務員でなくしたことに現れた。尤も、公務員数の削減はだいぶ前から意義を失っており、象徴的な意味しか無かったのだが。


この方針の帰結は、郵政三事業の取り扱いに象徴的にあらわれた。郵政事業庁郵政公社の取り扱いの帰結は、他の現業や研究教育等の非権力的サービス業務にも影響を与えた。実施部門の受け皿には、独立行政法人という非公務員タイプだけでなく、外局と公務員タイプの独立行政法人も用意されることとなった。ただ、行政機能の減量という点で一定の成果は見える。


内閣機能の強化と行政機能の減量と結びつけて既存組織の解体・統合が行われたことで、行政の在り方は中央省庁レベルや実務を行う施設のレベルにおいても大きな変容を見せた。そして、この動きは日本国憲法や法律の基本原理にも関わる問題でもある。この流れは、小泉政権以降の政権にも繋がる。

参考書籍・資料

福岡峻治「行政改革と日本官僚制の変容 -「官僚主導」から「政治主導」への転換とその課題-」(2007)
https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/363/1/genhou13-05.pdf
増島俊之「行政改革の現状と評価」(1999)
http://www.ppsa.jp/pdf/journal/pdf1999/1999-01-013.pdf
古谷雅彦「財政健全化としての行政改革」(2013)
https://www.jbaudit.go.jp/koryu/study/mag/pdf/j47d18.pdf
田中利幸「内閣機能の強化の現状と今後の課題」(2007)
https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2007pdf/20070112003.pdf
市橋克哉「中央省庁の再編問題」(1998)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/3/9/3_9_10/_pdf

90年代からの卒業(1)

2020年に安倍政権が退陣して、菅義偉官房長官が後継者になってから一年以上が経過した。菅氏は麻生・二階派だけでなく無派閥の議員からも支持されていて、「縦割り行政、既得権益、前例主義の打破」といったスローガンを掲げて、デジタル庁の創設による省庁再編を決めた。改革派と振る舞っていたせいか、本人が首相に就任した時には七割以上の支持率があった。

 

しかし実態はどうか。新型コロナは悪化の一途を辿り、ワクチン接種も他国に出遅れた。菅氏は長男のスキャンダルや総務省の接待の問題にはまともに説明しなかった。東京五輪に至っては「安心・安全な開催」とだけ言って開催を強行する始末だ。何よりも、本人には国家観が無く周りの人の意見を聞く気も無い。菅義偉に問題解決の意志が無いことは明らかだ。

 

かつて我が国は「経済一流・政治三流」と言われていた。平成の時代の日本人は政治をより良いものにしようと動いてきた筈だ。しかし、昨今の政治の腐敗凋落を見る限り、その運動が実を結んだとは言い難い。自民党の統治が崩壊しかかっている今、今後の政治の在り方を考え直す必要があるのではないだろうか。

 

本稿では菅政権が打破の対象としていた縦割り行政等の元となっていた自民党の構造や90年代以降に行われた行政改革を総括して、今後の政治の在り方を考えるものである。

【目次】

歴史的な日本のシステム

人間の行動は合理的選択と過去の経験や周囲の条件によって決まる。自民党を中心とした日本の政治は、単に与野党の判断だけでなく議会や行政官僚等の歴史的な形成によって成り立つのだ。政治が持つ内容や様々な圧力による変容を正確に理解しない限り、我が国の将来を見通すことはできないのである。

 

最初に、1955年に発表された自民党の立党宣言を一部引用する。

政治は国民のもの、即ちその使命と任務は、内に民生を安定せしめ、公共の福祉を増進し、外に自主独立の権威を回復し、平和の諸条件を調整確立するにある。

以上の文章は立党宣言の冒頭である。結党当初の自民党には国民のための政治を行い自主独立を達成する意志が存在していたことは明記しておきたい。

 

自民党システムとは何か。この言葉は、自民党を中心とした行政官僚や国会、社会党を始めとした野党を包括した全体的な統治の仕組みを指している。

 

ここで、行政官僚を中心に日本の統治システムが如何に形成されていったのかについて少し解説する。日本の官僚制は江戸時代から形成され始めていた。この時代では分権的な幕藩体制や近代的な行政官僚制の原型、農村の民主的な仕組みが形成されてきたのだ。国内の平和と経済的な繁栄が追求されてきた点で江戸と戦後は似ている。

 

武士は先頭集団としての側面を残しつつ、行政を担うようになった。筆算吟味といった試験による採用や年功的な能力主義と並行して、行政機関の協業・分業の体制が発達して、文書による管理や機能的な指揮命令系統を備えた階層的な組織が出来た訳だ。

 

日本の統治システムの特徴は分権性の高さと合意の重視だ。初期のころの江戸幕府は大名の改易や転封等で集権化を図っていたが、各藩の所領は幕府の藩政不干渉もあって安定化していった。その中で武士は支配する側の立場にあり農民から年貢を徴収していたが、土地の支配は一切行っていなかった。彼らは城下町に集住させられたことで土地から切り離されて、幕府から秩持米を受け取るサラリーマンのような存在となっていたのだ。幕臣は知行を与えられた場合でも分散的な所領を視察することさえ困難であった。社会を統合する程の土地所有勢力は対抗勢力の出現を抑える江戸幕府の施策によって現れなかったのだ。

 

18世紀前半、徳川吉宗の代にて足高の制が導入された。これは、幕府の役職に就任する者の家禄がその役高に達しない場合にその不足額を在職時に支給する制度である。これが武士階級内部での身分に囚われない人材登用を可能とした。さらに、武士以外の人間でも御家人の株を買うことで武士身分に仲間入りできるようにもなった。川路聖謨が一代で勘定奉行にまで昇進して幕府の外交を仕切ったことや、御家人の株を買った越前の農村の盲人を祖先に持つ勝海舟を見ても有能な人間が出世できたことは明らかだ。

 

足高制が導入された背景には幕府財政の恒常的な窮乏があった。江戸時代の初期には大規模な治水工事が行われて多くの農民が新田を得て自立していった。その勢いは、国土の荒廃を懸念した幕府が諸国山川掟を1666年に出した程だ。そこで農民たちが早稲の品種改良や農書の普及を進めてきたことで、伊達比べに代表されるように江戸の経済発展が進んだ。この経済発展の中で米の価格だけが下がっていく現象が起きた。吉宗の代ではそれが「米価安の諸色高」と言われた。この現象が米に依存する幕府や藩の財政を苦しめたのだ。

 

一方で農村では、名主・庄屋や年寄などを中心とした自治のための組織や制度が形成されていて、様々な社会関係の運営が自治によって行われていた。年貢の貢納についても内部でのやりくりや分担のルールは大方村方に任されていた。加えて定免法百姓一揆の一部合法化による増税拒否権が体制の安定化に繋がった。拒否権に基づく統治者と非統治者との「暗黙の了解」があったからだ。新田の開発や農耕技術の発展もあってか、18世紀半ばからは年貢の実質的な徴収率は下がっていった。

 

江戸時代における統治では丁寧な合意も重視された。村方の役職者は幕藩体制初期では有力家計の持ち回りだったが、江戸時代後期では各地で入れ札が導入された。この制度は役職に就く人を投票で決めるもので、場合によっては女性にも投票権があった。入れ札は都市でも、幕府の重要役職である目付の選考にも利用された。また、合議制と輪番制も重要だ。老中や勘定奉行には4~5人の、目付には「十人目付」がいて、これらの機関では全員の同意で物事が決まって実際の職務処理は輪番制で行われていた。これは権力の暴走を阻止するための仕組みだ。

 

明治時代では官僚制を中心とした統治システムが急速に構築された。明治憲法では官制大権が天皇にあり帝国議会は全く関与できなかった。官僚内閣制もこの時期から形成されており、内閣規定も首相の罷免権ないゆえに各省庁を統括する国務大臣が首相への拒否権を持った。帝国議会には内閣提出案の否決、軍部には統帥権の独立という拒否権が存在した。この分権的な仕組みは天皇を失政の責任から守るものであった。また、明治が幕を閉じようとする頃には官僚の資格任用と競争選抜といった仕組みが出来上がっていた。

 

昭和の初期には戦後の行政官僚制の原型が成り立っていた。各省単位の人事システムや大蔵省の中心的な役割などが成立した訳だ。戦前の行政官僚制では多くの点で官僚が主導した産業育成に伴い、国民の社会・経済的な動員の仕組みとして機能した。そんな中で政治的な意思決定は元老による斡旋と調停で進んだ。政党内閣や近衛文麿の新体制運動は政治的人脈に基づく憲法の運用の代替になれなかった。また、大東亜戦争では陸海軍の撤収の拒否権で戦線の野放図な拡大が起きて統一的な指導がなされなかった。

 

近代官僚制が急速に発達した背景に江戸時代の武士層からの人材を束ねる組織的な技術や豪農や商人を含む知的階層が存在したことは間違いない。明治時代から使われる意思決定の過程である稟議制も江戸時代のボトムアップ的な合意形成を基に生まれたと考えられる。

 

我が国の民主的なシステムには一つ欠けているものがあった。それは、国家全体の議会である。欧州史を見ると、本来議会は二種類の機能を持つことが分かる。一つは戦争や外交を行うための動員への同意を与えることだ。もう一つは、統治の主体的な機関としての意思決定を引き受ける機能だ。近代国家を構築する時にその対応に議会がどう関わるかが歴史の岐路だった。

 

例えば、絶対王政の元に官僚制と常備軍による強兵政策を採った仏国では王権と全国三部会との対立が続いた。軍事官僚システムを創った独国では議会は協賛機関に留まった。しかし英国の場合、国家運営の主導権が国王から議会下院へと移っていき、19世紀に選挙権が拡充されると議会下院が主権的な機関となった。議会は戦争遂行のための重税政策を容認した上に自分等自身への課税も厭わなかった。英国議会が統治の主体的な責任機関となった結果、リーダーシップの機能とボトムアップ型の民主的な機能が両立したのだ。

 

明治以降の日本では、議会は憲法上協賛機関であった。だが、実際には帝国議会は相当に重要な役割を果たしてきた。大正デモクラシーの時では疑似的な議院内閣制が出来た程だ。だが、帝国議会は主権的な存在になりえなかった。その背景には武士が社会的なリーダーとしての力を失ったことで議会の核となる勢力が存在しなかったことが考えられる。政友会が圧力を強める軍部に手を貸して民政党内閣を倒したことが議会の未成熟を示している。

 

日本の国会が統治の責任機関になれなかった結果、戦後の議会は大きな権限を持て余して行政官僚による支えを必要とした。これが自民党と官僚との分担体制に繋がるのである。日本の国会は憲法規定もあって自律性が極めて高く、政府には何の権限も無いのだ。欧州の主要国では20世紀後半に政府が議会内のプロセスに様々な権限を持つようになったにも関わらずだ。また、相対的に野党の影響力が大きくなり粘着性を備える国会の性格が重なって「党高政低」の状態が深刻になった。法案成立のゴールにたどり着くことが困難だったことは政府と与党との関係を作っている。加えて、参議院には予算と条約批准以外の全法案を否決できる拒否権があり、国対政治にも通じる。

 

そもそも何故リーダーシップが必要とされているのか。個人や集団は自分に都合のよいことを合理的に考える。皆が政治において平等な意思決定の権限を行使するだけでは、社会全体において「合理的」な腐敗や「合成の誤謬」といった問題が生じて物事の決定・実行が出来ない。そこで、国民から高いレベルの委任を取り付けて実行するリーダーシップが求められるのだ。日本の場合、自民党の派閥の仕組みやその領袖たちと支援役の大蔵省によって間接的ながらもリーダーシップは存在した。だがその反面、国会の主導性と一体である自由民主主義と実際の政治との乖離を招いた。

 

自民党システムのダイナミズム

大東亜戦争の敗戦後、GHQが大蔵省を中心とした省庁官僚制を戦前の体制の上で利用した。そのため敗戦直後の政治は行政官僚によって主導されていた。省庁が個別の設置法で根拠づけられる体制は1949年頃には確立していた。GHQの意向で国家公務員法が制定されたからだ。後の同法の改正では、各省の事務次官が政治任用の対象から外される。一方で国会は新憲法の定める役割を受け入れる準備を完全には整えていなかった。55年の国会法改正と自民党の成立による与党勢力の安定化までは運営ルールが不安定だった。

 

1955年の鳩山・緒方会談による保守合同自民党が誕生して、社会党との二大政党政治(いわゆる55年体制)が成立した。新憲法によって国民主権の原則が確立されたことで、自民党には重要な決定を下す権能が存在した。自民党は法律と予算という二つの重要なカギを握った。背景に同党が衆参両議会の過半数議席を確保してきたことはある。これが自民党と官僚との協働・分担体制に繋がるのだ。

 

一方で、自民党にも弱味がある。明治維新による社会的中核勢力の消滅に加えて大東亜戦争の敗戦で地方の名望家組織が大打撃を受けたことで、自民党の社会的基盤が脆弱だったのだ。戦前日本社会のリーダー格の人間が公職追放で消えたことで自由党等が人材不足に悩んだことが背景ではないだろうか。占領下での公職追放サンフランシスコ講和条約まで完全には解除されなかった。

 

社会基盤の脆弱性が招いたものとは、議員の個人後援会への依存だ。自民党の党員の大半は国会議員等の後援会を経由している。巨大な本部機構を抱える党の足腰である後援会は様々な情報ソースや民意のアンテナでもあり、議員の周りに集まった属人的集団故にイデオロギー面で柔軟だ。背景に中選挙区制はあった。殆どの選挙区にて自民党の公認候補が複数立つことになり、自前の投票基盤が必要になるからだ。

 

自民党のシステムが創られ始めた時期は1957年2月に成立した岸信介内閣と考えられる。岸は「党内八個師団」と称された旧民主党系もしくはその合流に参加した有力人物の率いる派閥軍団や石橋内閣のメンバーと共に「新長期経済計画」を決定した。その内容は官僚の強力な支援による重化学工業の発展や統制的な商工政策、賠償協定に基づく日本製品の東南アジアへの輸出等だった。岸が行政官僚を主導役とした背景にはGHQの統治に加えて、旧満州国での官僚主導による戦時高度成長の見果てぬ夢を戦後に求めたこともある。この構想は外貨不足や石炭偏重、何よりも政治闘争の高揚によって後回しとなったが。尚、同年7月の岸による内閣改造後、閣外になった池田勇人を総理にするための政策勉強会が出来て後の池田派「宏池会」が誕生する。

 

岸の後を継いだ池田勇人による「国民所得倍増計画」は、かつて「満州産業開発五か年計画」に深く関与し宏池会の初代事務局長になった田村敏雄や下村治ら大蔵省関係者、秘書の伊藤昌哉らによる研究会に支えられて実行された。背景に満州における官主導の経済政策への記憶があることは間違いない。一方で農業では省力化による専業農家の減少が問題になった。池田は64年に喉頭がん故に佐藤栄作を後継に指名して、翌年8月に病死した。

 

佐藤栄作政権では派閥の再編成が進んでいた。戦後の派閥の源流は大きく分けて吉田派と鳩山派とあった。自民党成立時の派閥は岸~佐藤政権の間に、河野派が中曽根派に、岸派が福田派に、佐藤派の周山会が田中派に引き継がれた。尚、石橋派は消滅。池田亡き後の宏池会前尾繁三郎そして大平正芳に引き継がれた。派閥の中身が整備されていったことが佐藤政権の特徴だ。

 

さて、岸信介池田勇人佐藤栄作といった官僚出身者の政権が続く中で、自民党では体制の確立が進んでいた。立党から約10年で政務調査会(以下、政調会)が整備されて、赤城総務会長による書簡を嚆矢として成立した法案の事前審査等の与党議員と省庁の実務レベルとの政策調整・意見交換も行われるようになり、族議員の萌芽が生まれた。さらに、政府と与党との二元体制も確立された。大蔵省は予算編成権を維持するも、自民党の分捕りゲームの浸透を許すような特別会計といった予算枠を認めるようになった。

 

政調会自民党ボトムアップ的な体制をよく表している。この会には省庁に対応するレベルの部会とその内部にある多種多様な小委員会が存在している。政策プロセスは小委員会から始まり、部会に上げられる。部会では意見交換と質疑応答が行われた後に部会長に決定が一任される。案件によっては、社会・経済的団体との対応のための調査会や特別委員会による審議もある。


その次の政調審議会では政調会長を中心に政調副会長や政審委員が参加して分野横断的な検討がなされる。そこには政情判断も加味されて、最後は政調会長の一任で事が決まる。最後の総務会では多数決が採られているが、同意の要求のために採決の拒否もある。重要な法案では三十名の総務もよる全員一致だって求められる。尚、それぞれの段階の決定方式は緩やかで、反対意見も取り入れられる。

 

自民党の派閥には主に二つの機能が存在する。一つは政策や情報面の互助組織としてだ。政治資金やポストの配分や田中・経世会の「総合病院化」等を見てもそれは明らかだ。袖領がポストと資金を握って内部の意思統一を行ったことで、自民党は一定の統率力を保つことが出来た。もう一つの機能は国会議員の育成だ。派閥の先輩議員は新人に国会や野党・官僚との付き合い方を教えてきた。

 

一昔前の派閥は特定の人を総理大臣にするために活動していた。前述した宏池会池田勇人がいい例だ。袖領は談合によって総理大臣や自民党総裁を決めていた。彼らは、ポストの交代が行われていた党全体の傾向とは真逆に非常に長い間その役職に就いていた。袖領の任期が長い原因は人事での生命与奪権の存在だ。所属派閥の窓口である党三役は袖領の推薦リストを基に決まる。つまり、派閥の内部は実質的な専制なのだ。

 

一方、政策決定では族議員の影響が大きい。これは個別の政策分野において部会や特別委員会、調査会に存在している。法令体系や政策情報、過去の実績と予算に関する緻密な討議が担当省庁と関連団体との間で行われるため、派閥の力学は直接的には働きにくい。族議員と行政官僚、関連団体との緊密な関係は鉄の三角形と言われた。この言葉自体は米国で発達したもので、族議員の代わりに議会の委員長が重要な役割を果たしている。

 

自民党全体の人事の特徴についても解説する。一つは当選回数に基づく年功序列である。初当選議員はまず国会対策委員会などで平委員として働く。二期目では副部会長を中心に就任し、政務次官に就くことがある。三期目前半には副委員長、後半には部会長に就任し始める。四期目でも部会長や調査会・特別委員会を含めた副ポストに、五期目では常任委員会の委員長に、六期目では大臣に就任していく。その過程の中で、先輩や官僚の評価で将来の幹部候補生がゆっくりと選抜されていく。

 

潜在的な競争主に小委員会での活動で表出していた。二期目以降の議員のうち、一定数は委員長になっておらず、就任回数も議員によって違う。小委員長への就任回数によって政策活動のレベルの差が生じている訳だ。また、競争は重要ポストへの就任状況にも表れる。総務局長には主流派閥でない限り好機はないが、副幹事長や政務副会長には非主流派閥の人でも一応就任できる。競争には、派閥の影響は確かにあったが次第に政調会での活動が重要性を持つようになった。


人事には後二点重要なことがある。一点は世襲。若くして議席を引き継いだ二世議員は、年功システムを卒業する時に活動できる期間を普通の議員に比べて長く持つことが出来る。もう一点は派閥袖領のポスト争いだ。ここでは敗者が派閥から追放されることが多い。

 

自民党のシステムは多元的な性格を持つ。政策決定までのプロセスは押し競饅頭のように多くの人が厳格な決まりもボスもなく複雑な駆け引きをして結論を形成しているのだ。鉄の三角形や部会もあって多元性は仕切られた形になり、意思決定は前年度までの実績を土台として何かを変化させる時には新しいものを追加していった。ボトムアップと緩やかなコンセンサスはその上で機能していたのだ。

 

また、池田内閣で出来た慣行の与党事前審査制に見られる政府と与党の二頭立ての体制も見逃せない。省庁内の課による法律の原案は部会における修正を加えて省内他部局、関連他省への合議に移る。再び与党に戻った法案は合意を集めて、省議へ進む。総務会での了承、政府による閣議決定で法案は国会に提出される。一方で、鉄の三角形が各分野ごとに対峙する縦割り体制が上に行くほど強くなっていた。政府部局と族議員との緊密な協働と政府と与党との対立はワンセットだった。

 

さて、1960年代後半~70年前後では通産省の特定産業振興臨時措置法や農水省の農地管理事業団法等の法案が不成立に終わった。それで官僚は自民党無しで法案を成立させることは出来ないことを知った。そこで彼らは自民党との棲み分けで、議員の利害を相当程度満たしつつ自分等の権益と影響力を維持する方針を決めた。ここから官僚制について解説する。

 

行政官僚は自民党と広範で緊密な協働体制を持つ。その様子は「官僚主導」といわれる程だった。官僚は自らの政調会で説明を行い、国会質疑において野党質問者から質問取りを行い、答弁作成で大臣の意思決定のお膳立てをする。役割と仕事量が多い故に、政策が官僚優位で進められやすい。これは国会審議の形骸化にも繋がった。主に総務会で根回しと交渉の上にできた政府提出法案が上程された後に議員が国会の審議に積極的に参加する理由はないからだ。


官僚たちは複雑な国会プロセスを潜り抜けたり時間に追われる大臣を利用して政策目標を達成するために徹夜のように働く。また、法案が衆議院を通過した後では与野党の基本的な合意が成立しており争点が殆ど残っていないこともある。

 

日本の官僚制は凝縮力と広がりのある組織・ネットワークとして構築されてきた。個別の設置法を基に権限と予算を持ち、大臣官房の秘書課を核に集権的で対外的な自律性を持った人事管理の体制で情報を蓄積してきた。大臣の補佐機構が貧弱だったことや内閣官房による総合調整、族議員の省庁応援団化がその表れだ。また、薬害エイズ事件では厚生省の生物製剤課課長が行政の不作為として有罪とされるも厚生大臣結果責任は問われなかった。この件を見ても、日本では大臣の役割が不明確で、官僚に委任された領域が大きいことが分かる。

 

1970~80年代では自民党システムが成熟した形で運営されていた。自民党は衆参両院にわたって国会の過半数を結党当初から1989年まで基本的に維持してきた。尤も、佐藤栄作政権の頃から進んだ農業の兼業化もあって自民党が農村票を失っていき70年代前半に生じた保革伯仲が、複雑な国会プロセスを越えて利益分配を約束する国対政治の所以ではあったが。対する社会党野党共闘の不自然さやイデオロギーの問題もあって、改憲阻止に必要な三分の一の議席数の確保に努めた。

 

ここで道路特定財源の問題について触れる。この問題は1953年に成立したガソリン税道路特定財源とする「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」に始まる。翌年からは第一次道路整備五ヵ年計画が始まっている。自動車関連の課税が財源を拡充する中、74年の田中角栄政権ではガソリン税等の四税に二度上乗せ分の暫定税率が設定された。これで成立した特定財源による道路整備予算システムは個人後援会の原動力となり、族議員の政治力も高めたのだ。

 

中曽根政権では政府の肥大した財政の改革が掲げられた。この時の行政改革ではケインズ主義を基に三公社の民営化や財政再建のために大蔵省の予算編成への枠当て等が行われた。本人の唱えた民活路線は公共投資を拡大して、各政策分野の族議員を育てて利益誘導政治を生んだ。この政治のもとに政策形成が80年代後半から徐々に政治主導へと変わっていき、そして後の行政改革にも通じるのだ。

 

大半の田中派議員による経世会を基盤とした竹下内閣では、派閥の事務総長会議が始められた。これは各派閥の事務総長が集まり造方向感を通じて政策の方向性を定めるものである。この背景には権力闘争で敵対者が排除されることが減少していって、「総主流派体制」という言葉が定着したことがある。田中角栄が闇将軍となろうとしたことで従来の主流派と非主流派との抗争が影を潜めるようになったからだ。経世会支配があれど、派閥間の共存が成立していたのだ。自民党には重要ポストの任期を細かく区切って持ち回すことになっていた。総裁が交代した場合の新総裁の任期は前代の残任期間となり、国政選挙において首相としての責任が問われるからだ。

 

執政中枢について。政権の中枢において、政治家には公式の法制度や個々の能力といった資源にも注目する。官僚には個々の能力だけでなく、所属組織の力や自律性も問われて交渉に影響を与える。与党政治家は大きな権限を持つも、凝集力を持つ官僚と提携している。それぞれのアクターの関係は複雑だ。

 

最後に行政官僚と政治家との関係について。前者は政策過程を緻密な積み上げ方式で進めて、自民党議員の利害を組み込んで原案を作成する。後者は党内意思決定のルールや官僚との協働体制が確立されてそれに乗った。これは議員立法が少ない大きな原因でもある。仏国や独国等では政治任命による政治的な官僚のグループを行政機構から分離させて政官関係を整えているが、日本ではその関係調整が行政機構自体に担われていた。

 

自民党は典型的な包括政党であり、あらゆる利害や考え方を取り入れる平等なシステムであった。一方で、リーダーシップの弱さは否めなかった。派閥の連合体制や三役等の党執行部の権限や首相の求心力の不明確さ、鉄の三角形と省庁間の割拠体制との連動、そして政府内手続きの行政性が大きな原因だ。派閥は個人の領有物から機関へと発展して、内部競争や非排除の論理が定着した。さらに、中選挙区制もあって政調会に繋がるボトムアップと一種の現場主義が次第に形成された。分権性とボトムアップのダイナミズム、野党や官僚との繋がりが自民党の強靭な競争力の基となったのだ。

 

政治改革を支えたもの

90年代以降の政治改革が始まった直接の契機は1989年だ。国内ではバブルによる地価高騰に苦しむ有権者リクルート事件に対する怒りや消費税導入によるねじれ国会の出現、バブル崩壊による地価・株価の急な下落、少子高齢化問題が起きた。国外では冷戦の終結による日米安保体制の変性、グローバル化による経済の越境やITの普及が進んだ。そんな中で自民党ボトムアップとコンセンサスを重視する体制や自民党との協調故か長期的なビジョンを見失った官僚、国対政治に浸る与野党の有様への危機感が募っていった訳だ。

 

政治改革の背景には、公共部門における様々な意思決定において合理的判断の出来る自律した個人が介入して政治権力を自らの責任で作り出そうとする発想があった。この傾向は高度経済成長が終わった70年代後半からあった。中洲一二によって提唱された「地方の時代」や大平正芳有識者研究会の「田園都市国家構想」といった動きの背景には従来の集権的で画一的な社会の在り方への疑問があった。80年代では学校の細かい規則が問題視されて、個性の尊重が語られるようになった。

 

ここで興味深い文章を紹介する。以下は1997年12月に提出された行政改革会議の最終報告の冒頭である。

今回の行政改革は、「行政」の改革であると同時に、国民が、明治憲法体制下にあって統治の客体という立場に慣れ、戦後も行政に依存しがちであった「この国の在り方」自体の改革であり、それは取りも直さず、この国を形作っている「われわれ国民」自身の在り方にかかわるものである。われわれ日本の国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し、日本国憲法のよって立つ精神によって、それを洗練し、「この国のかたち」を再構築することこそ、今回の行政改革の目標である。

真偽は兎も角、自律した個々による統治という考え方が足りず明治以降に整った制度が建前に留まっているという認識が行政改革の背景にあったのだ。この考え方は大東亜戦争の敗戦、戦後の自民党と官僚の密接連携で決定的なものになった。

 

90年代以降の政治改革は、政治の在り方のみならず国家と社会、公共と民間の関係も変えようとした実質的意味の憲法改正だったといえる。そもそも憲法とは法典だけでなく統治機構に関して定めることで、権力の所在と担い手、行使の範囲を確定させるルールの総称だ。法律や慣行で定められている統治のルールは憲法学において「実質的意味の憲法」と言われる。

 

政治改革の領域は、中央政府の改革中央政府以外の自律諸領域の改革と分けることが出来る。以下の1~3は前者、4~6は後者に該当する。

  1. 選挙制度改革
  2. 内閣機能強化
  3. 省庁再編
  4. 中央銀行改革
  5. 司法部門改革
  6. 地方分権改革

 

政治改革の原動力となった思想には近代主義があった。政治経済において個人の発想と行動を合理化して、西欧のように資本主義を基とした自由民主主義を達成しようとする考え方である。だが、戦後の日本における近代主義共産主義を含めた左派への志向と親近性があった。原因としては、軍国主義の時にマルクス主義を基に抵抗を続けた勢力がいたことや満州ソ連的な社会主義政策を打った岸信介の人脈が存在したことがあると考えられる。また、マルクス主義が政府統制や国家の役割、個人の解放、合理的な社会経済の運営において体系立った社会論理を持っていたこともある。

 

明治憲法にて自由主義の達成を可とした近代右派の考え方が日本になかった訳ではない。だが、戦時中の統制経済への不適合や戦後の近代主義者との不仲、戦前の一部肯定といったことがあって彼らは少数派に留まった。さらに、明治憲法天皇制を残した近代主義を不徹底として親英米をそのまま反共と見なす世代の登場が右派の存在感を下げた。後、明治体制を近代の証として理想化して、家族などの共同体や前近代からの秩序を重視する保守主義の考え方も忘れてはならない。

 

1955年の自民党成立は、近代右派(自由党)と保守主義(民主党)の合体、その後の潜在的対立を意味した。尚、近代左派では社会民主主義社会党右派と民社党の分裂もあって少数派に留まった。

 

近代右派の歴史について。戦後直後では戦前に教育を受けた近代右派のエリートが近代主義を担っていたが、50~60年代初頭にて丸山眞男を始めとした人物らの台頭によって左派の優位性が確保された。明治憲法体制との徹底的な対立が背景に存在したと考えられる。近代右派は反共主義や自民・社会両党の対立もあって保守派と一括りにされる傾向があった。

 

自民党政権が安定し始めた60年代半ばでは、吉田茂を戦後政治外交の礎として評価した高坂正堯中央公論編集者の粕谷一希のように戦後の自由民主主義や新憲法における個人の尊重を基に日本の繁栄の基盤を拡充しようとした人物らが台頭するようになった。彼らは近代右・左派と一線を画す存在で、特に高坂は佐藤政権にて楠田實首相秘書官の下で沖縄返還交渉など政策立案にも関与した。また、70年代末の大平研究会では香山健一と佐藤誠三郎が交じったように近代右派と保守主義が共同して政策運営に関与した。

 

中曽根政権では民主党系に近かったこともあってか保守主義が重視された。近代右派は制作過程の面で人的な断絶を受けることになり、牛尾治朗といった海外経験豊富な経済人らが後の政治改革を進めるようになった。尤も、中曽根自身は反共主義者渡辺恒雄と旧友であり新自由主義者加藤寛行政改革の中心的な人物に置いたことで近代右派との繋がりを持っていたが。

 

最後に、政治改革の土着化について。土着化とは当該領域における課題への対応策として、もしくは強い利害関心を持つアクターに受け入れられて成果が定着するために改革案が具体化されることを言う。改革を支持したアクター達は各領域にて前近代的な要素の存在を認識していたと考えられる。土着化は広範な改革にて、各領域の具体的な方向性の違いを招いたのである。

 

小沢一郎選挙制度改革

政治改革を語る上で欠かせない人物には小沢一郎がいる。小沢を中心として書かれた「日本改造計画」では、小選挙区制の導入や与党と内閣の一体化、首相官邸の機能強化、全国の三百の市への再編等が提唱された。対外政策については保護主義からの脱却や国連中心主義の実践などが唱えられた。ただし、小沢氏の主張は2003年の民由合併以降には新自由主義から社会民主主義的な方針に変わっている。残念ながら本人は日本改造計画を上書きするような著書を出したり自分の考えの変わった契機について明言していない。

 

小沢氏の来歴について簡単に解説する。本人は1969年の衆議院選挙で自民党議員として初当選を果たした後、72年に党の改革委員会にて財界・官僚依存からの脱却を主張して80年には「人間小沢佐重喜」への寄稿で比例を加味した小選挙区制の実現や政党法の設立を主張した。小沢自身は父の議席を引き継ぐ二世議員だったのだ。本人は田中角栄に師事して議運・国対族として経験を重ねた。木曜クラブの事務局長、総務局長を歴任してきたが、竹下登を首相とするための創政会、そして経世会の中核人物となる。89年8月には金丸信の後押しを基に自民党幹事長に、11月の竹下内閣では官房副長官を歴任した。

 

多くの人から権力側と思われている小沢は、主観の中では一貫として反権力の立場に立っていたと考えられる。まず、本人の自己分析を紹介する。以下は渡辺乾介氏の「あの人 ひとつの小沢一郎論」の一文だ。

私には体制批判の傾向があって、10代後半からオヤジのそういう面ばかり見てきたから、何かこう体制に甘んじたくないという思いを強くしていた

小沢は厳しい努力の末に有力者となった父の生き様に影響を受けていたのだ。

 

だが、父と似た境遇にいた田中角栄や金丸、竹下には功罪半ばのような評価を下していた。ここで五百旗頭他「小沢一郎」から少し引用する。

田中のおやじから始まって金丸さん、竹下さんと、みんな本当に教えられたし...けれども、私に言わせるとみんな反面教師ですね。...要するに田中先生は、戦後体制の一人だったということです。...けれども、体制を壊そうとした人ではない。僕は体制そのものを変えようとしている。だから、僕にとっては反面教師なんです。

小沢が史上最年少で自民党の幹事長になったのに離党して野党暮らしを選んだことも必然だった。小沢を最後まで理解出来ていたのは平野貞夫氏程度だ。

 

小沢の役割は選挙制度改革による政権交代可能な議会制民主主義を目指したという点で大きい。ここからは、1994年の政治改革四法で決まった選挙制度改革について説明する。

 

選挙制度改革が唱えられた原因には中選挙区制度への問題意識があった。日本の中選挙区制比例代表制や連記制を伴わなず単記非移譲制を持った独特のもので、比例制の高さや自民党単独過半数を得てきたこともあって政策競争が起きず、有権者向けのサービス競争やそれによる棲み分けが起きて政治腐敗の元となっているといった批判があった訳だ。そこで、小選挙区比例代表制は政党間の勢力変動による政権交代と二大政党制を伴う政党間競争が起こると期待されて始まった。また、選挙の公認権を握る幹部を中心に意思決定が進むことでサービス合戦による政治資金の抑制にも繋がると考えられた。政党助成制度がその傾向を加速させる。比例代表制は小政党を守るための激変緩和措置だった。

 

選挙制度改革の背景には国際政治経済環境の変化と政治腐敗・定数不均衡の深刻化があった。まず前者について。自由主義に基づく国際政治経済秩序を創った米国は70年代後半頃から日本などに相応の責任分担を求めるようになった。特に冷戦終結後には、地域紛争の抑制や旧共産圏国家の経済的自立を支えるために先進国の協調が求められるようになった。政治学者の佐々木毅は自著の「いま政治に何が可能か」にて、今の政治の新政治課題対策が不十分さであることを指摘した。小沢と金丸は国際環境の変化を重く受け止めていた故に政治改革を進めようとしたのだ。

 

後者では、自民党の主に農村を対象とした利益誘導政治や中選挙区制による政治資金の膨張への不満もあったが、何よりも投票価値の不公平さがあった。60年以降に定数不均衡訴訟がなされて、70年代半ばには議員一人当たりの人口格差が三倍までならばよしとする相場観が出来た。しかし、三倍の根拠の不明確さや衆議院定数増といったお手盛り的な不均衡是正への批判は強かった。

 

日本の政治に足りないものは応答能力か自浄能力かの問いは選挙制度改革、政治改革の全体像における大きな分岐点となった。改革の原動力を示す良い例は、88年12月に後藤田正晴を会長として創設された政治改革委員会が作成した「政治改革大綱」だ。この文書では中選挙区制による政治資金の膨張を抑えることのほか、小選挙区制中心への変革を「自民党の近代化」と位置付けていた。派閥の解消や族議員の問題の解決の他、議員候補者の選定では党公認候補者の決定における厳しい基準や非公認当選者への毅然とした対応措置が決められたのだ。ただし、応答能力、つまり政権交代による異なる選択肢の提示能力の問題については文書の準備が89年前半で冷戦後の世界像が不明確だったこともあり主張されなかった。選挙制度改革が応答能力強化の文脈で有権者に受け入れたかも怪しい。

 

また、同年の10月に初会合を開いた「政治改革フォーラム」の趣意書や90年4月に提出された第八回選挙制度審議会第一次答申で示された理想的な政治像には二つの特徴がある。一つは一般党員から党幹部までのピラミッド構造に支えられた有力な近代組織政党が多数存在する状態だ。もう一つは政党間での競争によって政権が生まれて、一貫性のある方針による政策を迅速に決定することだ。モデルはウェストミンスター型議院内閣制と考えられる。

 

当時考えられた選択肢は三つあった。

  1. 小選挙区(最も得票数の多い人が当選する故に大政党に有利で、政党間の勢力分布が変動しやすい。)
  2. 小選挙区比例代表並立制(小選挙区比例代表を別個にして、小政党にも一定の議席獲得の好機を与える。)
  3. 小選挙区比例代表併用制(議員選定は小選挙区での得票のみで決まり、議会における政党間の勢力分布は比例代表による。小政党に有利。)

比例代表で決まった議席数を小選挙区側が下回る場合は党のリストに従って当選者を出すが、逆の場合は超過議席ルールを置く場合がある。選挙制度審議会が推奨したものは2の方であった。

 

その中で小沢は90年2月の衆議院選挙勝利を基に自公民協調路線を取ることで政治改革に向けた野党工作を進めてきた。これは国対政治そのものでもあったが。そして、12月には小選挙区比例代表並立制の導入を柱とする政治改革基本要綱がまとめられて、翌年7月に政治改革関連三法案が国会に提出された。だが、小沢が東京都知事選における自公民相乗りの磯村尚徳の敗北の責任で幹事長を辞職したり6月に狭心症で倒れたこともあり法案は不成立に終わった。海部政権は衆議院解散を示唆して法案を成立させようとしたが、小沢派らの水面下での活動もあって結局内閣総辞職に至った。この背景には竹下登復権を狙う竹下派と小沢・金丸派との経世会内部の対立があった。政治改革関連三法案の時でも幹事長から経世会副会長に変わった小沢に対して、梶山国対委員長佐藤孝行総務会長ら竹下グループが廃案に向けて行動していたのだ。

 

宮沢喜一内閣にて改革反対派が勢いづく中、92年8月に金丸信東京佐川急便事件の件で経世会会長・自民党副総裁を辞職した。その過程で小沢グループと竹下グループの対立は決定的になって、経世会は竹下グループの小渕派と小沢・羽田の改革フォーラム21で分裂した。尚、これと同時期に自民党は単純小選挙区制の導入を決めている。尤も、当時の参議院にて与野党の勢力が逆転していたことや野党の賛同が得られないこと故に実質的な現状維持の案ではあったが。小沢派は連合の山岸章と組み、翌年3月の金丸の逮捕を機に自民党からの離党を決めた。

 

一方で野党は比例性の高い併用制や連用制を主張していた。社会党公明党は前者を、4月の政治改革推進協議会(民間政治臨調)が後者を主張していた。野党は元々小選挙区制に反対していたが、日本政治の応答能力の問題や連合の形成もあって野党統一による政権交代を期待する考えの高まり、そして金丸の逮捕における有権者の政治腐敗への怒りが政治改革を「異論なき正義」として野党の反対の方針を変えたのだ。この事件は政治資金規正の不十分さ故のもので、選挙制度改革に結びつくのはおかしいという意見も一理あるが。これは、単純小選挙区制を決めて政治改革自体を阻止しようとした自民党の方針も変えた。

 

93年6月には小沢・羽田派が通常国会での法案成立を断念した宮沢内閣への不信任案に賛成して、新生党を結成した。自民党解散総選挙にて衆議院での単独過半数に及ばず、与党の座を失った。そして、非自民連立の細川護熙内閣の下で94年1月に小選挙区比例代表並立制の導入が確定した。尚、細川氏が小沢との関係を重視したことも背景にはある。この経世会の権力闘争・分裂は自民党システムの解体にも繋がる。

(続く)

参考文献

福岡峻治『行政改革と日本官僚制の変容 「官僚主導」から「政治主導」への転換とその課題』(2006)

https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/363/1/genhou13-05.pdf

何故安倍政権は続くのか

第二次以降の安倍政権は発足から七年以上の年月が経った。国政選挙では負け知らずだ。では安倍政権の政策は国民にとって素晴らしいものなのだろうか。

 

日本経済は未だにデフレから脱することはできず、産業の疲弊も治っていない。外交ではどこの国からもまともに相手にされておらず中国や北朝鮮による軍事的脅威は解決していない。年金や社会保障も不安定なままで、何よりも忖度よる政治の腐敗は隠しきれない。

 

これが民主党政権ならば、国民の大非難が起こっている筈だ。しかし、未だに内閣支持率は約4割と安定的な水準を保っている。

 

安倍政権が辞めない理由としては野党の実力不足が挙げられる。では、野党の問題点とは何なのだろうか。今回は与党への追及や経済分野、外交・安全保障分野において、野党に何が必要なのかを検証する。

 

小物な野党と大きな官僚問題

野党は安倍晋三が嘘やごまかしを続けていると言って誠実さを求めている。確かに、安倍晋三がすぐにバレるような嘘を何度もついている。だが、桜を見る会などは小悪に過ぎず、加計については本質的な部分が論議されていない。

 

官僚が一人自殺した加計の問題への追及は、「お友達に利益を誘導するために、強引に学校を新設させた」という話への延々とした追及に留まっているのだ。これでは話が単純ゆえに表面的だ。

 

桜を見る会など本来は検察庁に委ねるべき話だ。EU諸国ではこの類いの追及などあり得ない。野党が国民生活などの重要な話をすっ飛ばしてまで出す案件ではないのだ。野党が本当に批判するならば、その矛先は検察に向けるべきなのである。桜を見る会公職選挙法に違反する可能性はあるが、それで内閣が退陣するならば安倍政権はここまで長く続かない。

 

追及に明け暮れる野党など所詮は糞にたかる銀蝿と同類だ。本来ならばもっと大きなスケールの話で議論を主導する意気を見せねばならない。ちっぽけなスケールの野党では誰が安倍の次なのかが見えてこない。これでは国民の支持など得られないのは当然だ。

 

さて、加計学園の問題の本質的な問題点とは何か。それは教育分野の官僚による規制なのである。

 

加計学園問題は、獣医学部の新設を巡って国家戦略特区が始まる経緯で発生したものだ。ここでは、政治家の口利きが発生する理由を解説する。

 

それは、官僚支配である。規制やルールに基づく官僚の統治は実は不公平なもので腐敗の温床なのだ。何故ならば、規制の解釈の幅を決める権利を持つのは官僚だからだ。

 

民間の個人や企業が新規事業を行うにあたって、当該分野の規制に適合させようとした時に役所側は様々な理屈で自らの意思を通そうとする。その判断が、旧弊的な既存事業者等の既得権益に配慮して参入ハードルを高くする場合や、役所の事なかれ、あるいは単なる前例踏襲主義の場合もある。そこでものを言うのが、政治家の口利きなのだ。

 

今回の加計学園の場合、安倍がお仲間に利益を誘導した問題のように言われて官僚が自殺したが、その背景には文科省厚労省の腐敗体質が存在している。国が医療や教育に責任を持つことは勿論重要だ。だが、官僚による非効率的で不公平な統治、無用の規制を無視しては、仮に野党が政権を取っても加計のような問題がまた起きる危険がある。

 

官僚についてもう一つ取り上げたいことがある。それは少子化問題だ。少子化対策が功を上げなかった理由としては政治における女性の地位の低さなどがある。だが、本質的な問題が二つある。

 

一つは偏見だ。それは「女性は家庭を守る」といった内容のものだ。国家が一定の価値観を元に特定の集団を優遇することがあってはならない。偏見を無くすには、偏見を体現する政策を乗り越え、根本的な意識刷新のための教育が必要だ。

 

だが、最も重要なものはもう一つの原因である、利権、特に文科省厚労省の省益である。その一例として、公的な幼児教育関係者の既得権益だ。我が国の幼児教育の問題点は、文科省厚労省によって教育とケア双方の要素が分断されていることである。これが都市部における待機児童の原因だ。

 

過少供給の保育市場における認可保育園は、競争にも消費者の評価も起きない。そのため関係者は色々な理由で供給を遅らせて、新規参入も阻む。そうなると高コスト体質もサービス水準も上がらない。既得権益の存在によって、同じ保育所職員でも公的な立場と民間の立場に大きな格差が生まれるのだ。

 

自治体側にも、供給の増加が負担の拡大をもたらす構造がある。待機児童がいても、彼是言い訳すればよい。しかも保育園への入所の是非は役人の匙加減で、意思決定の透明性が低い。

 

今の野党に本気で既得権益清算を遂行する意志があるのかは怪しい。新規参入を増やしてイノベーションを促すために規制改革が必要なのだ。野党は、安倍政権が民主党時代に提案された案の大半を棚上げにしていることを衝くべきだ。規制改革案の立案は難しくない。そこそこのコンサルタントを呼んだり元官僚のチームを組成したりすればできる話だ。それすらしないのは只の怠慢だ。それで与党の追及をやられた処で説得力などない。

 

不明確なままの経済運営姿勢

野党は消費税廃止とやら無駄な支出云々と注目を集めやすい政策分野を特にアピールしている。だが、有権者は一つ一つの政策ではなく、あくまで経済運営の全体像を評価していると考えられる。政策の拠って立つ思想や前提が評価される訳だ。骨太の議論や政策が成っていないことが野党の問題ではないか。

 

残念ながら我が国の経済リテラシーは未熟だと言わざるを得ない。具体的には経済政策における最低限の共通言語と基本認識がない状態のことを指す。

 

リテラシーが成らない原因は歴史にある。冷戦初期における日本等の西側諸国の保守政権が赤化防止のために社会主義的要素を取り入れたことが大きい。日本が「成功した社会主義国」と言われた理由もそれだ。だが一方で、知的停滞が起きたことは否定できない。マスメディアが政権の論理構成や事実認識に挑戦しない点が大きい。

 

まず、アベノミクスを構成するそれぞれの政策の本来の意味を書こう。

 

まずは金融政策。これは金融的な環境を整えることが目的だ。金利、為替の過度な乱高下を避ける。同政策は短期間で効果が確認できて政治の監視も緩い。だが民間主体の経済成長や競争力を根本的に変化させる訳ではないため、金融政策は脇役的な立場だと言える。

 

次に財政政策。これは自らも経済主体であるところの国の財政的な行動を通じて経済に働きかける政策だ。歳出入について議論が交わされる故に同政策には民主的な監視が厳しくなる。消費税の議論もそれに含まれる。財政政策は短期的に効果が出せる一方で、全体への効果が長続きしない。しかも政府とのつながりの強い業界、企業を利する面も否定できない。財政政策には公平性が求められるのである。

 

最後に構造改革。これは経済主体間の構造に働きかける政策だ。ここでは、政府による規制の見直しが主である。重要なことは、民間の経済主体間における競争の強化だ。既得権益層との葛藤は避けられない。

 

ついでに産業政策についても説明する。これは特定分野における投融資を促す政策だ。(厳密な定義はないが)国が直接的に投融資する場合や民間の投融資を促す場合がある。だが、政府の競争への参加が経済成長やその効率性を阻む危険もある。

 

現在の安倍政権はどうか。実は緊縮財政である。政府の総支出の伸び率はOECD加盟国においては36ヵ国中30ヵ国であり緊縮財政の類いに入る。また、過去20年の政府支出伸び率は世界最下位だ。

アベノミクス第二の矢である財政出動はされていないのが現状なのである。

 

第一の矢である金融緩和は中途半端なものだ。インフレ率は未だに0.1%の状態であり、物価上昇率も目標の2%に達していない。

 

第三の矢である成長戦略(構造改革)に至ってはもはや犯罪レベルである。その内容は、米国優位が前提であるTPP推進、水道民営化、派遣労働や非正規雇用の拡大、種子法廃止、移民政策(問題視されている技能実習生制度の改正もなし)等、国民の生活を脅かしかねないものばかりだ。水道民営化や移民は既に欧州各国で問題視されているにも関わらずだ。改革という言葉を弄んだ安倍政権の罪は重大である。

 

それでいて、本当に必要な改革を安倍政権はやっていない。安倍は上記に挙げた官僚絡みの利権の清算は勿論、第一次産業の改革 、少子高齢化の中における社会保障の維持低迷する労働の生産性の改善といった本質的な問題に手をつけていない。ただそれが安倍政権が長期安定政権となった原因でもある。与党の支持層が割れるリスクを犯さなかったのだから。

 

野党は経済運営における骨子を示す必要がある。自民党は官僚や特定の団体や企業による利権に浸ってきた故に現状維持の政策しか打つことができない。難しいことは分かるまいと国民を舐めた態度を取る限り、野党が自民党に勝つことはない。

 

安全保障と九条の錯誤

その次に外交・安全保障について書こう。野党は改憲阻止を共闘の名目としているが、本当にそれは正しい戦略だろうか?

 

2015年に安全保障関連法案に関する議論が行われた。ここでは、歴史的に形成されてきた日本独自の論点である、各種の関係性や政策文化について解説する。

(制服組=軍人   背広組=内局官僚)

 

まず、政軍関係について。これは、安全保障と民主主義という本来相反する概念の両立を目的とした関係性である。19世紀以降に軍がプロの存在になったことで、政治が如何に軍を民主的に統制するかが重要となる。それがシビリアン・コントロール(文民統制)の原則なのである。

 

冷戦においては核戦争のリスク故に文民統制の強化が進められたが、冷戦後は文民の暴走を防ぐ役割も求められるようになった。何故ならば文民(政治家や国民)が好戦的であったことがあったからだ。事実、米軍はイラク戦争に反対していた。

 

文民統制には主に3種類に分けられる。制服組を背広組の文官(官僚)が管理して、その上に防衛大臣が管理する形を「垂直統合」という。軍事政権や革命政権、そして戦後の我が国が該当する。次に、防衛大臣が制服組と背広組それぞれの案を比較できる形を「均衡型」という。また、大統領が直接軍に関与して、軍の首脳陣も政治に巻き込まれる形を「同格型」という。米国がまさにそれだ。その内、理想的な形は均衡型だ。

 

この点は、政官関係に繋がっている。我が国では90年代以降に政治家や総理大臣の主導権の強化を図った改革が行われた。実際に安倍政権は2015年6月に文官統制の廃止を決定した。勿論、権限が強化された分、政治家の責任は大きくなる。実際の政治家たちに軍事政策を判断できるかといった不安はご尤もだ。ましてやスキャンダル追及で本質的な問題から逃げる野党の実力など察して知るべし。

 

そして、制服組と背広組との関係については戦後の日本独自の論点だ。自衛隊は戦前の反省故に旧軍の関係者を可能な限り省くといった目的と旧軍による知見の必要性とのバランスを取って成り立つ。武器や部隊の運用制限等がそのための「歯止め」である。これは日本が実質的に米軍の保護下にあった故に成立できた。

 

歯止めに関わったのは背広組の官僚たちだ。つまり、彼らが制服組を支配していた訳だ。まさに垂直統合型の統制だ。安倍政権下において文官統制の廃止を始めとした安保関連法案の成立の背景には、制服組に蓄えられた背広組に対する怨恨が自民党に受け入れられたことが大きいのだ。

 

次に、我が国の3つの政策文化について解説する。1つ目は平和主義だ。これの最大の特徴は、安全保障の世界を憲法解釈という法律論で理解しようとする姿勢である。九条の関係で、軍が存在しないことにされていた故だ。

 

戦後、三木内閣頃までは各種の原則が立ち上げられた。当時の反軍世論もあって、様々な歯止めが作られた。日陰者扱いであった自衛隊は、文官(旧防衛庁内局)や大蔵省による予算管理、民主主義による管理(内閣と国会)を受けた。本来は冷戦後に安全保障環境の変化を根拠として文官らによる歯止めを止めるべきだったが、当時の政府は字句解釈を続けた。

 

2つ目はチェックアンドバランスへの不得意だ。我が国では抑制と均衡の前提となる意見対立が忌避される傾向がある。外交・安全保障における二元外交への回避姿勢が分かりやすい。

 

終戦直後の外交官出身のリーダー達は、戦前の軍による既成事実の確立を外交の幅が狭まった理由と認識していた故に外交の一元化を目指した。複数の情報源の存在が情報を立体的に理解することを助けるのだが。今でも各国の大使館の官僚や武官らは一元的外交のために細かいルールに従って動いている。

 

3つ目は自衛隊の反エリート主義だ。戦前のエリート参謀への反感が大きな原因である。現代において、専門知識のある国際的な軍人の存在は必要である。海外文化への造詣を持った大国間の軍人ネットワークが国際社会の安全弁になる。我が国でいうならば、ロシア語や中国語等への理解がある軍人が必要だ。世界の「難しいこと」には無知でいいといった考えは通じない。

 

冷戦後の約4半世紀において安全保障の世界には2つの大きな変化がある。1つ目は精密誘導兵器の導入を始めとした軍の情報化である。現代戦の優劣は指揮・情報系統の能力で決まる。これは集団的自衛権が可決された原因の1つでもある。2つ目は戦場が曖昧になったことだ。冷戦後に地域紛争が起こったりしたことで世界規模でテロリズムが拡散した。イスラム国がいい例だ。また、サイバー空間や宇宙の戦場化も進んでいる。

 

残念ながら我が国の安全保障論議は世界的に大きな遅れを取ってしまっている。九条を理由に、軍を持っていないことを建前として自衛隊の存在から目を背けたツケが回っているのだ。憲法解釈の1つや2つで右往左往している暇などない。

 

従来の憲法解釈では日進月歩の安全保障環境に適応することは不可能だ。現状では法的な要件を1つ1つ定めていくことになる。これでは却って現場に超法規的な措置を取らせてしまう危険がある。安全保障の本質は万が一の事態に備えることであるからだ。これでは法治国家として失格である。

 

また、日米合同委員会の存在も無視できない。いざという時に自衛隊は米軍の傘下に下ることになる。そうなれば我が国の法体系などひとたまりもない。自衛隊に統制規範や軍刑法がない以上、自衛隊の統率が取れなくなる恐れがある。(※)

 

安全保障の議論に必要なものは、正確な情報と健全な市民精神だ。政策決定の根拠はリアルな現実に基づいて行われるべきである。戦後の垂直統合型の文民統制では伝言ゲームの形で情報が伝わる故に、国会の得られる情報が制限されて、的確さも危うくなる。歯止めの考え方が判断を誤らせるのだ。

 

政策文化のアップデートも欠かせない。平和主義の現実路線化は勿論、政策決定は複数の情報源を根拠に行われるべきだ。リーダーには抑制と均衡を管理する能力が必要だ。軍人は豊かな人間性と国際性を持って、国際社会における平和の要となるべきだ。

 

安全保障論議では、憲法事項、法律事項、慣習の峻別が必要になる。まず、憲法事項と見るべきものは内閣総理大臣の最高指揮権、自衛隊の軍事組織への固定化、国家の開戦権である。開戦権については、承認権限を国会に付与することが望ましいだろう。また、米国等に設置されている調査委員会を作る権限も必要だ。

 

法律事項は、予算に関する国会の権限や自衛隊の権能範囲、軍事法廷・軍規、交戦規定の事項がある。慣習としては、制服組の国会答弁や軍人への慰霊の制度化などがある。特に制服組の答弁は、我が国が均衡型の文民統制を確立するのに望ましい慣習だ。

 

我が国の対米自立は勿論、文民統制を完璧なものにするためにも、九条改正は避けて通ることはできない。軍を持っているということに真正面から向き合うことで、我が国の安全保障の停滞を糺すことができる。特に世界の多極化が進んで米国への依存ができなくなっている今、九条改正による自主防衛の確立は急務である。

 

今の野党の主張していることは憲法解釈を理由とした安保関連法案廃止、改憲阻止ばかりだ。戦後の体制を維持しようとするようでは今後の世界の動向に対応できない。本当は安全保障論議自民党以上に進展させる覚悟が必要だ。何の熟慮もなく護憲だ護憲だと叫ぶようでは話にならない。

 

改革志向の無党派保守層という希望

我が国の有権者に関して2つの事実が明らかになっている。1つ目は、民主党を政権の座に着かせたのは小泉政権を支持していた構造改革派であることだ。2つ目は有権者の約七割が保守的な志向を持っていることである。

 

改革無党派の勢いは、特に小池都知事や維新の時に明らかになった。最後に、改革保守派の動きを総括する。

 

まず、小池百合子から。小池の強味の本質は自己目的化である。自身の成功を日本にとっての朗報と考えて動く故に大衆の熱狂を喚起しやすい。小池の希望の党は、自民党のような利権によるしがらみ政治とは一線を画すイメージを打ち出したことで人気となった。これは2017年の都知事選で自民党が大敗した大きな原因でもある。

 

小池の言動は、民主党を母体とした民進党の解体を進めた。(主に2016年の秋から)民進党政権交代に失敗した理由としては、体系的な経済政策を語れなかったことと、蓮舫自身の問題がある。

 

民進党の掲げていた経済政策は、財政政策の一部である分配政策だけだった。それでいて、上記した幼児教育における官民格差等の本質的な問題を解決するための構造改革には触れなかった。党内でも、経済成長への認識が纏まっていなかった。経済運営の議論に真面目に向き合わないようでは国民に能力を疑われても仕方がない。

 

蓮舫自身の問題点、それは統治者としての自覚がなかったことである。本来は政治的な動機がより普遍的に国民のため、社会のためのものに昇華させる過程において、その人の自覚は養われる。

 

蓮舫はハーフということで明け透けと物を言う異端さで人気を集めたが、そのままでは日本の主流派の支持を得られない。我が国の主流は独自の倫理や論理に基づく競争社会である。その中で、蓮舫の体現する価値観が本当に人々への見本にふさわしいか否かも重要である。残念ながら、二重国籍の問題における本人の対応はその場しのぎと言わざるを得ない。二重国籍の合法性を示すために関係のない中国の国籍法を持ち出した程だから。

 

次に維新について。この党の原動力は現状変更への力である。これは、民主党政権を誕生させたマイルドな構造改革支持者の塊によって成り立つエネルギーだ。そこにはメディアの力もあり、マイルドな新自由主義の気分でもあると考えられる。

 

維新は「グレートリセット」という言葉をよく使っていた。この言葉には現実の閉塞感を一気に突破するという意味が込められていたが、これは少しずつ積み重ねようとする従来の日本の改革姿勢とは一線を画す。この画期的な姿勢が、維新が今でも一定の影響力を保っている一因と推測できる。

 

維新の掲げていた大阪都構想は、従来のような中央と地方との分配ではなく、大阪自身が富を生み出すことを目的としていた。これは地方が分権的に競争するようになるきっかけにもなる故に。日本は今後人口が減って、自治体も減っていく。分権的に地方間の競争が起きることは日本社会にとっては悪い話ではない。

 

橋本徹を始めとしたリーダー達の行動力や維新自体の組織力も大したものだった。同党は市・府議会で勢力を拡大して、中央政界において他党と対等に渡り合って、自分らに有利な展開を広げた。都構想においても、維新は議会で多数派工作を成功させて、住民投票の時はタウンミーティングやメディアを通じて住民を熱心に説得した。このダイナミックさは従来の日本の地方自治にはなかった。

 

ここまで、希望の党や維新について解説してきたが、ここで理解するべきことは安倍自民党後に必要なことだ。

 

次期与党がやるべきことは、政治や経済を刷新して、我が国の知的停滞を止めることだ。まず、官僚機構については、意思決定の過程の透明性を確保することが重要である。そうすることで、官僚を取り巻く利権の正体を明らかにすることができる。そのためにも、三権分立の安定化が望ましい。

 

経済政策については全体的な運営姿勢を明確にすることは勿論、既得権益清算による、次世代産業の育成が必要である。そのためには意識のアップデートも必須になる。教育の刷新も欠かせない。

 

外交・安全保障については、とにかく自主防衛を達成することが第一だ。改憲は勿論、文民統制を確かなものにすることで、自衛隊の法的な統制を完璧なものにする必要がある。

 

そんな中で、野党共闘は逆効果である。野党に必要なものは改革無党派を取り込む程の改革への鋭さであり、意思決定の迅速さだ。野党共闘といった大きな塊では、組織やリーダー性のすれ違いなどで鋭さが鈍る危険がある。政策理念は後からでいいという発想は通じない。国民はかつて民主党が内部分裂で改革に失敗したことを覚えている。多くの国民は野党共闘に対して同様の懸念を抱いているのである。

 

所詮、共闘など負け犬同士の寄せ集めに過ぎない。小物がいくら揃ったところで、政党としての実力がないのでは国民にそっぽ向かれる。野党共闘という考え方こそが野党勢力の停滞なのである。1つの野党が国家のグランドデザインをまとめることが望ましい。

 

最後に一言。

野党共闘を越えよ。自民党や官僚を越えよ。研ぎ澄まされた政策理念、堂々と本質的な問題に挑む勇気こそが野党の勝機なのだ!!

あなたに伝えたい政治の話 (文春新書)

あなたに伝えたい政治の話 (文春新書)

 

※参考

立憲主義燃ゆる

貴方は、憲法とは何かと聞かれればこうと答えることができるだろうか?何となく覚えているという人が多いのではないか。

 

簡単に表せば、権力者に対する国民の命令書なのだ。つまり、権力をコントロールするために存在しているのだ。これを元にした政治思想を立憲主義という。では、今の安倍政権は憲法を守っているだろうか?

 

  • 公務員による忖度→第十五条違反
  • 森友学園の八億円値引き→第十八条違反
  • 共謀罪→第十三、十九、二十一、三十一条違反

 

これらは氷山の一角に過ぎない。普通ならばこのような政権はとっくの昔に退陣している筈だ。にも関わらず存続しているということは、この国に立憲主義が根付いていないことの証明である。

 

つまり、なぜこの国が憲法を理解できていないか議論する時期が既に来ているのだ。そうすることで安倍政権の退陣の道が見えるだろう。

 

GHQによる憲法の宿痾

我が国における憲法議論には大きな問題点がある。誰が作ったのかということで、真逆のことが同時に教えられていることだ。ある者はGHQと言い、ある者は戦後憲法を守ってきた国民と言う。憲法が国の根幹であるならば、さすがにこの狂った状況だけは終わらせる必要がある。

 

ここで重要なことは、誰が憲法の骨格を決める権力を持っていたかということだ。「つくった」という言葉には広い定義が含まれている。日本人の作った案が含まれているという意味や、戦争は絶対に嫌と思った国民が長年守ったというニュアンスもある。これが議論の混乱を招いているのだろう。

 

これについては、GHQが書いたと断言できる。GHQは1946年の2月4日から12日にかけて、たったの9日間で草案を書いた。それは翌年の2月13日に日本政府に手渡されて、改正が強要された。(部分的な変更は後にされたが)さらにGHQはこれが知られないようにするために、検閲によって国内の報道はおろか言及すらも禁じた。ついでに、草案の執筆は49年に刊行された「日本の政治的再編」で公表された。

 

第二次世界大戦後の世界において、憲法は小国が大国に立ち向かうための最大の武器である。フィリピンがよい例だ。マルコス政権が倒れた翌年、同国は今後新たな条約を結ばない限り、国内に外国軍の駐留を認めないと憲法を作った。当然米国は激怒して圧力をかけたきたが、結局1992年に米軍は完全撤退したのである。

 

ところが日本には自力で憲法を作るノウハウが今も昔もないのだ。この問題は2012年の自民党改憲案に顕著に表れた。これの一因が先程の「誰が憲法をつくったか」の命題に対する認識の歪みである。

 

GHQによって憲法が書かれたという事実を見せても、「中身さえ良ければ誰が書こうが関係ない」と言い張る人がいる。しかしそれは完全に間違いである。

 

現行憲法が「日本人によって選びとられたもの」でないことが問題なのだ。実際にGHQ憲法を制定する前に衆議院議員(解散中)の八割を公職追放した。国会に旧体制派を残さないためだ。また、帝国議会の修正のほとんどである憲法改正小委員会は秘密会であった。つまり、自分たちで憲法を書いていない故に憲法判断ができないこと、憲法を書いた社会的勢力がいないゆえに政府の違憲行為に対抗できないことが我が国の法治主義の崩壊の原因なのである。

 

また、憲法の由来にも問題点がある。それは現行憲法が欽定憲法か民定憲法のどちらかということだ。前者の場合は昭和天皇によって改正されてできた憲法という学説である。しかし前者にはとんでもない矛盾がある。憲法前文にはこうある。

日本国民は(略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する

ここでは日本国民が主体的に憲法を確定したことになっている。(民定憲法論)これでは昭和天皇改憲を発議・裁可したという歴史的事実と矛盾する。本当はGHQによって書かれたため、双方とも辻褄が合わない。にも関わらず、この2つの学説を巡って東大法学部と京大法学部が長年対立したのだ。

 

ここで、憲法の混乱を避けるためにまっとうな議論をしていた人物を紹介しよう。それは美濃部達吉である。彼は枢密院において新憲法の草案を審議するときに、以下のことを言って草案に反対した。

「手続きによると、草案を勅命によって議会に提出し、(略)天皇のご裁可によって改正が成立することになる。それにもかかわらず、前文では、国民みずからが憲法を制定するようになっていて、これはまったくの虚偽である」

「民定憲法は国民代表会議をつくってそれに起案させ、最後の確定として国民投票にかけるのが適当と思う。現在のやり方は虚偽であり、このような虚偽を憲法の冒頭としてかかげることは国家として恥ずべきことではないか。」

 

近代憲法が国家権力を制限するものである以上は、占領軍は論外として、政府が草案を作ってもならない。「誰が書こうが関係ない」など憲法論としては許されないのだ。しかし美濃部の論はGHQを中心とした体制によって葬られた。それで体制に迎合するものならば何でも受け入れられた。

 

体制迎合の代表的な例が宮澤俊義だった。彼は憲法研究委員会を立ち上げて、GHQの草案の法学的な位置を協議した。その時に「降伏という出来事は、法学的には革命的性格を有する」とした八月革命説を編み出した。これは、日本がポツダム宣言を受諾した日に法学上の革命が起きて主権がそのまま天皇から国民に移ったというのだ。無茶苦茶である。

 

元々宮澤は「大日本帝国憲法は民主主義を否定していない。ポツダム宣言を受諾しても、基本的に齟齬はしない。部分的に改めるだけで十分である。」と主張していた。軍部の暴走前の民主主義的傾向を復活させればよいという内容だ。この考え方の元に日本政府の憲法草案が作られた。ところが戦後の宮澤の著作にはこれとは逆のことが書かれている。

 

考え方の変化の過程が不明確であることがこれの問題なのだ。ウラの結論を正当化するためならば、学説が真逆になってしまうのである。インテグリティが失われていることも憲法論議の混乱の一因なのである。

 

さらに、統治行為論についても書こう。これは、政治的に極めて重要な、国家統治に関わる問題については司法の判断を保留するという理屈だ。だが少し考えれば、三権分立の否定になる。司法が行政を抑えることができないのだから。ところが現在の日本の法学では問題提起すら許されていないのだ。

 

現行憲法GHQによって押し付けられた、血の通わぬものであること、インテグリティの喪失といったことを隠してきたことで我が国の法体制は脆弱となってしまった。東大や京大の認識すら混乱しているのだから、立憲主義など根付きようがない。

 

そのせいか憲法裁判所がない。本来はこれで違憲と判断できる法案の成立を事前に止めることができる。仮に国会における成立要件を満たしていたとしてもだ。裁判所が存在しさえすれば、共謀罪などの安倍政権の違憲法案の成立を阻止することだってできた筈だ。まあ憲法が日本人によって書かれていない以上は判断ができないのは当然だが。

 

安倍政権の他にも、供託金の問題もある。これは受け取り自体が憲法44条違反なのだが、それが公然と罷り通っているではないか。これも、憲法裁判所がないことで受け取る議員を処罰できないことが原因なのだ。

 

さらに、GHQによる押し付け憲法には国際法上の問題点もある。1907年に改定されたハーグ陸戦条約第43条にはこうある。

占領者は、絶対的な支障がないかぎり、占領地の現行法律を尊重する。

 

ドイツを例に取ろう。かの国は米英仏ソによる4カ国による分割統治という苛酷な状況に置かれていた。実際に占領軍の長官ら(西ドイツだけで米英仏の三人の軍政長官がいた)から文書が渡されて改憲を迫られた。しかし、ドイツは正式な憲法を一切作らなかった。1949年5月の独立時に各州の代表から成る議会代表会議によって、基本法という形で暫定憲法を定めた。第146条を見てほしい。

この憲法は、ドイツ国民が自由な決定により議決した憲法が施行される日に、その効力を失う。

ドイツは東西の統一時に改めて憲法を制定するとしたわけだ。また、敗戦国ではないが、フランスの第四共和国憲法は、領土が外国軍に占領されている時の改憲を禁じているのだ。

 

これから分かることは、もし国土の一部でも外国軍によって占領されている場合は、絶対に憲法に手を触れてはならないことだ。これが憲法の世界標準なのだ。その常識があれば、現行憲法が制定されようとしたときに、沖縄県が議会に代表を送れない時に憲法をつくってはならないという声が出ただろう。

 

護憲派憲法の内容がいいと言うが、権力側から与えられているようでは意味がない。

 

ここで何故GHQ憲法を日本に押し付けたかを説明しよう。現行憲法が日本人自身で書かれたことにされていることが何よりの問題である。

 

GHQの最高司令官のマッカーサーは自らのイニシアティブの元に憲法改正を行おうとした。一番の原因は昭和天皇だ。陛下の命令によって数百万の日本軍が抵抗を止めて、占領軍に従ったからだ。マッカーサー昭和天皇が日本占領に欠かせないと確信したのだ。そこで、天皇東京裁判で裁かれないように、「天皇も日本も将来軍事的脅威になることはない」という形で憲法を作ることになった。しかし、米ソの意見の対立故に、極東委員会という日本占領に関する最高機関が成立した。同会が改憲における優先的な決定権を握ったのだ。

 

ここで紹介したい人物がいる。それはチャールズ・L・ケーディスだ。彼はGHQにおける憲法草案執筆プロジェクトの現場責任者であったが、1946年2月1日にマッカーサーに「憲法の改革について」というレポートをコートニ・ホイットニー将軍の了承で提出した。内容を3点にまとめる。

  • マッカーサー元帥には、改憲の政策を決定する権限を持つ。ただし、極東委員会が発行するまで。
  • 極東委員会発足後は、マッカーサーの命令でも、英国、ソ連、中国のうち一国が反対すると無効になる。
  • ただし、命令」には日本政府から改憲案が提出されて元帥が承認する行為は含まれない。

 

そこでマッカーサーはケーディスの勧めの元に草案をつくることにした。ケーディスのレポートが提出された同日、毎日新聞が日本政府の改憲草案をスクープしたとされている。しかし、掲載された草案は宮澤俊義のものであった。しかも彼の弟が毎日の記者であったことを考えると、スクープはやらせであった可能性が高い。しかもその日は来日中の極東諮問委員会の調査団が横浜から米国へと出発した日でもある。国際的にも密室だった。

 

GHQのメンバーの行動は、戦後の日本社会にて決定的な影響を与えることになった。先に書いたように、「誰がつくったか」ということで日本人は未だに混乱の中にいるのだから。つまり、憲法という国家の根幹に大きな闇が生まれてしまったのだ。もしGHQ草案の長所を活かしながら、独立時にもう一度自分たちでつくっておけば、少なくとも今のような混乱はなかった筈だ。

 

また、憲法にはGHQ昭和天皇との二重構造だけでなく、心理学的な問題もある。(二重構造についての詳しい解説は今回は省略させてもらうが)

  1. 占領軍は密室で書いて、受け入れを強要
  2. 内容自体は悪くない

 

本来はこの2つは論理的には矛盾している。それゆえに受け入れようとすると「認知不協和」を起こしてしまう。1が事実ならばとんでもないことであり、逆に2が事実ならば密室で書いて押し付ける意味がなくなる。

 

問題は、2を評価して1を否定する自称リベラルとその逆である自称保守といった勢力しか存在しないことである。後者の場合、血の通わぬ憲法を押し付けられたことで、憲法や人権などの中身にコンプレックスを抱いていると思われる。国民主権や人権をなくせといった声が自民党内から出てきた原因もそれだろう。

 

憲法と共にできた日米安全保障条約に基づいて自衛隊を利用したいという欲望が米軍には存在する。それを防ぐための戦術論として護憲が有効だったのかも知れない。だが、2015年に安倍政権が集団的自衛権を容認してしまった。このままでは自衛隊は完全に米軍の一部となるだろう。つまり、これ以上憲法や九条の問題の解決の先送りは許されない。

 

九条の光に潜む影

憲法第九条は平和主義を示すという。ここでは如何にそれがつくられたかを書こう。

 

九条は前述したケーディスによって書かれた。彼はこの条文について2つのことを語った。

「日本を永久に武装解除されたままにおくことです。ただ自国保存の権利は留保しておく。言いかえれば、日本は防衛用の兵器類以外は、決してなにももたないということです。」

「九条の執筆については私がひとりでやるということを宣言しました。(略)理由のひとつは、パリ不戦条約のなかにうたわれていること(第一条)を思い出してそれを生かせるだろうと考えたからです。

おそらくケーディスは、新しい時代の模範となりうる憲法をつくりたいという夢を持っていたのだろう。パリ不戦条約第一条が現行憲法第九条の第一項につながる。ただ、最低限の武装すら後に認められなくなっていった。

 

ここでもっと重大なことがある。それは大西洋憲章の存在である。その中の「平和を愛する諸国民」(第八項)や「すべての国の民族が恐怖と欠乏から解放されてその生命をまっとうできるような平和の確立」(第六項)は現行憲法の前文に使われている。さらに、八項にある「世界のすべての国民が、武力の使用を放棄するようにならなければならない」という基本理念が九条を成立させている。

 

この憲章は米英二カ国によって発表された。その後両国は同盟にソ連と中国(中華民国)を加えて、発表から僅か4ヶ月で26の国の巨大な国家連合を成立させたのだ。このときにルーズベルトの提案で連合国という言葉が使われるようになった。これが後に国連となる。尤も、米英ソ中4ヶ国が一堂に集うことは殆ど無かったが。

 

だがもっと重要なものはダンバートンオークス提案という国連憲章の原案だ。ただし、原案と現行憲章とは大きな違いがある。それは、「一般の加盟国に、独自に戦争をする権利を認めていなかった」ことである。具体的には国連憲章にある個別的・集団的自衛権の概念が原案にはなかったことである。

 

勿論自国が攻撃を受けたときに反撃する自衛権は認められる。だが、一般加盟国は「安全保障理事会の許可」「地域の安全保障機構のメンバーとして」といった場合でしか軍事力を行使できない。一方で安保理常任理事国は国連軍として各国から軍勢を集めて指揮できる。戦争の権利を独占する。このような「世界政府」の発想が九条第二項を生んだのだ。尤も、原案は「例外規定」の導入によって改変されて、一国の戦争が違法という理念は形骸化したが。

 

国連軍構想が生きていた同時期の2月1日、安保理常任理事国の参謀長が国連軍について具体的な議論ということで召集された。その2日後に示されたマッカーサー三原則の「戦争と戦力の放棄」にはこうある。

日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理念にゆだねる。日本が陸海空軍をもつことは、今後も許可されることはなく、交戦権が日本軍にあたえられることもない。

つまり、自衛のための武力すら認められないのだ。しかも米国の国務省は、GHQ憲法執筆については一切知らなかった。つまり、マッカーサーの連中の暴走である。

 

その後冷戦が始まったことで国連軍創設の会議は何の成果も上げなかった。そして、最終的に憲章に加わった集団的自衛権が個別国家の戦争=違法という理念を形骸化させた。その結果、九条第二項は現実における基盤を失ったのである。そして、米軍の永久的日本駐留と米国の「基地帝国化」を招いた。これは日米安保条約に関わる問題である。

 

日米安保条約のことを語るのに必ず欠かせないものがある。それは敵国条項である。第二次世界大戦における敗戦国の日本とドイツが主な対象だ。国連の本質的な対立軸は、戦勝国の連合国側と日本、ドイツといった敗戦国だからだ。

 

敗戦国の法的位置について説明する。本来国連憲章国際法の最上位にある。軍事力の行使は前述通り、国連軍という形や安保理の許可で可能だ。ところが日本やドイツの場合、許可の有無に関わらず、侵略の再現と判断すれば攻撃できるようになっている。(第53条1項後半)日本とドイツの永久的非武装化が目的であり、実際に設立当初のNATOはドイツの封じ込めを目的としていた。これが地域的安全保障協定の正体である。

 

次の第107条も重要だ。この条文は、国連憲章の全条文は戦勝国の敗戦国に対する戦後処理の問題には適用されないことが書かれているのだ。

 

実際にポツダム宣言には、占領目的が達成されて平和的な政府が成立したら占領軍は撤退することが決まっていたのだ。大西洋憲章にて「領土不拡大の原則」がある以上は当然。ところが、サンフランシスコ平和条約には占領軍の撤退を義務付ける条文(第6条)にはこんな記述がある。

ただし、この規定は、一または二の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された、もしくは締結される二国間、もしくは多国間の協定にもとづく、またはその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐屯または駐留を妨げるものではない。

つまり、日米安保条約による米軍の駐留は別なのだ。

 

さらに、サンフランシスコ平和条約第3条の前半では、米国が国連に対して沖縄等を信託統治制度のもとにおく提案をした時は日本は無条件で同意することになっている。信託統治の場合は将来の独立や自治が前提だ。しかし後半では、その提案が出るまで米国は政治的権力を行使できることになっている。

 

つまり、米国はそんな提案を一度もしてこなかったのだ。沖縄への半永久的駐留といった「領土不拡大の原則」や「人権の尊重」といった国際法違反が罷り通る原因がそれだ。しかも107条にあるように、敗戦国には憲章の内容が適用されない以上は他の連合国諸国は米国の横暴に反対できない。

 

107条を前提に敵国条項を振り返ると、安保理の許可なしに攻撃できる地域的安全保障協定こそが日米同盟の正体であることも考えられる。

 

日本占領の末期の頃の米国は日米の安全保障条約を豪州やフィリピン等を加えた集団安全保障条約として構想していた。その名を太平洋集団安全保障条約という。(他の加盟国からの反対によって実現しなかったが)その中でも当時のトルーマン大統領の以下の発言は重要である。

 

「この取り決めは、外部からの攻撃に対抗するため加盟国が共同行動をとることを保障すると同時に、日本が再び侵略的になった場合は、日本からの攻撃に対抗するため加盟国と共同行動を保障するという二重の目的をもつことになるだろう。

九条第二項によって無防備化した日本を防衛すると同時に、(もしも)軍国主義化した日本をすぐに武力攻撃できる仕組みなのだ。実際に周辺諸国は米軍の沖縄駐留を希望した。日米安保の目的とは日本国を守るのではなく、日本の地域の周辺諸国を日本国から守るためにできたものである。在日米軍は実質的な占領軍である。まさに「ビンのふた論」。

 

日米関係というものは、これまで「同盟&属国」と言われてきたが、正確には「同盟&潜在的敵国」なのだ。地域的安全保障が同盟の本質である以上日本に実質的な国境はない。ベトナム戦争イラク戦争に日本が加担した根本的な理由もそれだ。

 

幻想の戦後民主主義

現行憲法に潜む本質的問題を解決するためには、まずは戦後に民主主義ができたという思い込みや「戦後の平和憲法といった幻想を捨てることから始める必要がある。

 

話題となっている憲法九条についてだが、第一項と二項を一括りに守ろうとすると、米軍の撤退が不可能になってしまう。第一項については上記の説明通り、国際社会の基礎であり他国にも存在する。問題は第二項だ。冷戦の開始により、前提となりうる国連軍の編成が不可能になった。その結果、「全戦力を放棄した第二項」と「米軍の駐留(特に沖縄)」という矛盾が発生した。それが砂川判決で爆発したことでこの国の法治主義が崩壊した。同時に統治行為論も誕生して、政治に対する法の規制が効かなくなっている。

 

米軍の駐留については、沖縄メッセージという事情がある。ここでは昭和天皇を初めとした首脳陣らがGHQとの対立で日本側が勝利した。米国が日本を冷戦における反共の防波堤にすることを決めたからだ。これで沖縄と本州に米軍駐留が置かれることになった。これを逆コースの始まりという。(沖縄メッセージの詳細は今回は省略させてもらう)

 

そのせいで、自衛隊は有事の際には在日米軍の指揮下に入ることが統一指揮権密約で決まっている。良い方向に憲法を変えようとする勢力が育たない理由や、15年に集団的自衛権の行使容認が決まった背景にはそれがある。二項では交戦権の放棄が謳われるが、実際は交戦を拒否する権利がないのだ。これが日米地位協定の実態だ。地位協定には相互性が必要だ。九条に自衛隊を統制する機能がない以上は協定の改善は不可能だ。

 

ここまで読んでもらえば分かる通り、戦後の日本は法体系が根本的に崩れており、初めから民主制国家として設定されていない。国民の人権が万全に守られていないことは明らかだろう。憲法そのものが民から作られていない以上は戦前の明治憲法と同じ押し付けだ。安倍政権による違憲行為の数々はそれの表舞台に過ぎない。

 

我々は今、憲法そのものを見直す時期に入っているのだ。具体的には米国に寄ったものではなく、国連中心の形に直さねばならない。そこで勧めたい改憲案として、立憲主義改憲がある。

http://www.6001260a5bf85a2006a7b058408ae580.com/ (1) (1).pdf

 

この憲法案では、自衛隊を国軍に昇格させた上で統制規範や文民統制を記す。つまり有事においても軍を法でコントロールできるようにするのだ。その上で在日米軍の存在を禁止して、過去の密約を無効化する。フィリピンに習う形だ。これによって所謂安保村といった利権の精算や日米関係の健全化が可能だ。

 

この憲法案が成立することで日米地位協定の解決ができて、新生日本軍は米軍の戦争に付き合う必要はなくなる。勿論集団的自衛権の廃止も可能だ。そして、国家主権が米国に取られている状況は無くなるだろう。

 

また、敵国条項の廃止の見込みも立つ。連合国特に常任理事国らは、日本がかつての帝国時代から決別できているかに注目していると思われる。そんな時に自衛権が米軍につくようでは条項の廃止は不可能だ。自衛隊をしっかり統制して暴走を防ぐことが周辺国、特に中露の信頼を得ることになる。戦前は軍の暴走が元凶なのだから。

 

さらに、憲法裁判所も作られる。これが事前に法案を裁くことで、政府は違憲行為をすることが出来なくなる。これまで安倍政権が作った数々の違憲法案は勿論、供託金の廃止だってできる。(個人的には世襲の禁止も憲法に盛り込みたいが)これによって、国民の人権を守る体制が磐石になる。三権分立が安定化するわけだ。

 

特に三権分立の確立は必要だ。司法や国会が行政を上手く抑制できるようにする必要がある。(国会については他にも問題はあるが)何故ならば行政が他の機関より強い状態では、過去の利権関係の精算が困難になり、外的要因によるクラッシュがない限り同じ方針を取ることになるからだ。大東亜戦争の敗戦や辺野古の基地移設、原発の続行がいい例だ。日本が外圧でしか変われないと言われる元凶が行政だ。

 

改憲論議については、安倍政権下でも問題はない。そもそも自民党自体がある意味米国の手先のような政党だ。安倍はそれの最たる例である。前述した通り、憲法改正には必ず米軍や敵国条項の問題が絡む。自民党にとって彼らの悲願の改憲は不可能なのである。つまり、自民党は本質的には護憲派政党なのだ。

 

それに、2019年の七月の参議院選挙で自民党改憲発議に必要な全議席数2/3の数を得ていない。よって、安倍政権は数による強行採決はできない。しかも以前に行われた自民党総裁選では石破派の健闘が起きて、安倍政権のレームダック化は明らかだ。まあ、安倍としては改憲さえ叶えば程よいところで解散しようとしているが。以前よりも弱体化した安倍政権に怯むようでは野党は政権を取れないだろう。

 

今こそ憲法を改めて米国への追従を転換して行政を立て直す時が来ている。戦後レジームを断ち切る好機は今なのだ。それゆえに野党は改憲発議を積極的に行って安倍政権を終わらせねばならない。議論を止めている暇はない!

 

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか (講談社+α文庫)
 

立憲主義改憲
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(2020年1月25日改訂)

日本の国防の真の脅威

安倍晋三自衛隊の敵だ!!
私は声を大にしてそう怒鳴りたい。何故なら安倍政権は自衛隊を弱体化させてきた政権だからだ。

米国産兵器の爆買いのリスク

安倍晋三には外交・防衛に精通しているというイメージがあるが、完全に間違いである。奴は重度の軍事音痴であるからだ。そこで、奴の悪行をいくつか取り上げよう。


まずはF35から挙げよう。墜落事件以降に同機の欠陥が指摘されているが、私が指摘したいことはそれではない。問題は同機の導入が日本の防衛産業を破壊してしまったことだ。


防衛省は新しいものが欲しかったあまりに、FXの選考を引き延ばしたり戦闘機開発・製造基盤の維持の有無をはっきりとしなかった。その結果、多数の企業が防衛産業から撤退するようになった。他の仕事を受け持つ企業はそんなリスキーで将来性の薄い事業には戻らない。


そもそもF35は米国だけでなく他の国々との共同開発という形で作られていた。当初は日本が四割国産と言われていた。
戦闘機単価におけるソフトウェアの割合は高い。仮に日本が四割生産としても一機当たり3~400億円のコストがかかる。そして、これはパートナー各国の仕事を取り上げることにもなる。当然生産は難しくなる。


また、同機はとにかく維持費が高い。なぜなら、ステルス性の保存だけでなく、ウェポンベイに兵装を備えることで国産兵装が使えなくなるからだ。それで兵器体系が二種類になる。これが防衛費を圧迫するのだ。
しかも性能の維持すらも怪しい。米国は英国にすら情報開示を厳しく制限している。戦闘機のキモであるシステム統合、アビオ、レーダーは尚更だ。


さらに悪いことに、航空自衛隊にはF35を活用する程のアセットがない。本来はC4ISR関連のものが必要だ。また空中給油機も不可欠である。しかし、導入したXC_2のコストは高いため、自衛隊は十分に備えていない。つまり費用対効果が悪いのだ。


結論を言うと、F35の大量導入は、兵器の国産を実質的に止めて、防衛産業を米国に委ねることと言っても過言ではない。これは売国政策ではないか?


次に取り上げたいものはイージスアショアだ。これは北朝鮮からのミサイル防衛のためと言われたが、そのなかに重大な問題が潜んでいる。


そもそもイージスアショアの導入自体が結論ありきである。
なぜ秋田県山口県なのか?実はそれらが北朝鮮からの弾道ミサイルの軌道の真下になるからだ。前者の場合はハワイ向け、後者の場合はグアム向け。つまり、イージスアショアは米国領を守るために配備されたにすぎないのだ。


ここで懸念するべき事態は、その地域が攻撃対象になることだ。イージスアショアは地上配備型であり敵の格好の狙いだ。
戦争のセオリーとしては、誤爆ということで周辺の町を破壊することが効果的とされている。そのため地域住民がその巻き添えで殺されることもあり得る。またゲリラ攻撃にも弱い。


また、MD対応のイージス艦をどうするかも問題だ。現在では約4~6隻が対応している。また、いずも級DDHは事実上のヘリ空母。つまり、実態は40隻程度しかいないのと同じとなっているイージス艦がMD対応のままだと護衛艦隊の数も、防空能力も低下したままということになる。
イージスアショアの導入は、護衛艦隊のポートフォリオと能力のグランドデザインにも関わることに留意するべきだ。


おまけにアショアの種類も不明だ。米軍が2022年に導入する新型のものか現行のものか判断がつかないのだ。米国が新型をリリースしないこともあり得る。


さらに取り上げたいものは水陸両用車輌のAAV7だ。
これは尖閣・沖縄防衛のためと言われたが実際はそれの役に立たないものだ。


そもそも本当に水陸両用車輌は必要なのか疑問がある。何故ならば携行火器や精密誘導弾、ドローンの普及によって強襲上陸は自殺行為となっているからだ。そのため英国海兵隊などはむしろヘリボーン作戦に主力をおいている。


また、AAV7自体は図体が大きくて地上における路外走破能力が低い。そのため南西諸島の珊瑚礁や護岸工事が施されたも超えられない。水上航行能力は時速13キロ程度でしかなく、敵から見れば格好の的だ。同車が揚陸できるところは砂浜だけでしかも後進すらもできないため、沖縄や宮古島のような大規模なビーチでしか使えない。
これを見ると、政府と防衛省宮古島沖縄本島が敵軍に占領された後からの奪還を考えているという見方もできる。これを防衛といえるだろうか?


これらの問題は氷山の一角に過ぎない。だが、これだけで米軍兵器の爆買いが自衛隊をダメにしていることが分かるだろう。

安倍政権と対米従属

ここで分かることは、安倍政権はやっているふりをして、その裏で国防を米国に売りとばしていることだ。つまり対米従属の強化である。


安倍政権は2018年には防衛費を約5兆円にまで引き上げた。防衛費の拡大自体は良い。不安定になっている東アジア情勢を鑑みればむしろ少ない位だ。
問題はそれが米国に向かってしまっていることだ。


本来財政支出は国内への投資のみに効果を発揮するのだ。他国からの購入の場合、輸入と同等のものとなり、輸入元の国の利益にはなっても我が国の利益には結びつかないのだ。そのため、米国からの購入費用は最小限に抑えなくてはならない。
ところが安倍政権は米国からの爆買いにお金を注いでいる。その結果、相対的に人件費が縮小することで自衛隊の人員が減っているのだ。


それでいて安倍は、以前から問題視されている自衛隊の通信網や医療には何の手も打っていない。東日本大震災では各部隊との連絡が難しかった。また、医療に至ってはお子様レベルだ。現に海上自衛隊には船医すらいない有り様である。この有り様で戦争を満足に戦うことができるだろうか?


もっと深刻な事態になっているのは外交だ。


当初安倍政権は尖閣諸島を守るために船溜まりを造ることを名言した。しかしその公約は果たされず、自衛隊の常駐すらされていない。そればかりか中国の領海侵犯に対して拿捕や撃沈といった当然の対応すら取っていない。韓国やインドネシア、太平洋の小国ですら同様の対応をしているにも関わらずだ。その弱腰的な姿勢が中国軍の侵略を増長させている。


また安倍政権は企業の中国市場への流出に何の手も打っていない。海外で自国企業が利益を上げたところで、それはその国の利益となって、日本の国益にはならない。投資が海外に行くのだから当然だろう。つまり、安倍政権は中国の経済成長に貢献した訳だ。


北朝鮮への対応も終始酷いものだった。安倍晋三は明日にもミサイルが来るように煽ってきたがその根拠は薄弱だ。


北朝鮮は以前から核兵器弾道ミサイルを開発してきた。既に我が国にに届くミサイルは安倍政権以前から実用化されている。水爆実験だって単なる実験でありミサイルの弾頭として実用化されるには時間がかかる。


そもそも北朝鮮にとって核兵器やミサイルは政治的道具だ。これによって外交でそれなりの立場を保つことができるのだ。言うならば、暴力団の暴力と同じ。
勿論ミサイルの脅威がないとは言えない。独裁国家の権力構造や意思決定の過程、核兵器やミサイルの正確な情報を知ることが難しいからだ。そのため最悪の事態に備える必要がある。


ところが安倍はこれらに対して、防衛省はおろか民間防衛すら強化しなかった。小泉政権の頃は国民保護法や有事法が制定されたが、奴はこれを強化しなかった。双方とも明確さがないのにも関わらずだ。


そんなにも北朝鮮のミサイルが危ないならば、東京オリンピックの開催を中止するべきだろう。また、国防上の大きな弱点でもある原発だって再稼働をやめた方がいい。後者は攻撃されると広範囲に放射能を撒いてしまうのだから。


2017年には、奴は呑気にも解散選挙を実施した。米朝開戦が懸念されているならば、国民に北朝鮮核兵器を撃ち込んでくる理由を説明して、いつ戦争が始まっても良いように体制を整えるべきであったのにだ。ただ危ないと騒いで、Jアラートを鳴らして国民の不安を煽っただけだ。おそらく森友・加計の問題で下がった自分の支持率の回復が狙いだろう。


さらに言うと、奴は核兵器やミサイルよりも剣呑なサイバー攻撃に無策であった。サイバー攻撃は犯人の特定や証拠の確保が難しく、インフラへの打撃が強い。しかも北朝鮮のサイバー部隊は世界屈指の優秀さを誇る。


これから見ても分かる通り、安倍晋三は極度の軍事音痴であり、外交や防衛を玩具のように扱う売国奴だ。こいつが国難であることは明らかだ。


だが、同時に気づいて欲しいこともある。それは、対米従属こそが日本の国防上のリスクでもあることだ。
米国は今、東アジアにおける影響力を縮めようとしている。同国のグローバル企業は生産拠点を中国に移してきた。そのためグローバル資本家や大企業は親中派であり、米国は中国と決裂するような行動が取れない。ニクソン大統領以降のグローバル化でそれは決定づけられた。


また、米国はイラク戦争の時から中東で戦争を繰り返してきたことで軍事力を低下させている。トランプ大統領が反グローバル路線を取る一因がそれだ。その結果、米国自体が厭戦的になっている。実際に、有事における尖閣への派兵には六割が反対という世論調査も出ている。尖閣は米国の利益には関係ないが。


そうなると、米国は我が国にも弱腰外交を強要するようになった。防衛を同国に頼る我が国としては、それに逆らう根拠がない。安倍政権が中国に融和的な態度である理由はそれだ。


これは対北朝鮮にも言える。米国は既に北朝鮮と戦う気力も余力もない。また中国に無断のまま北に攻撃する気もない。そうなると中国軍との戦闘を避けられないからだ。現に米国は在韓米軍の引き上げも検討している。


現に我が国は米国に一方的に従属している状態にある。米国にとって冷戦以降、日本は地政学上重要ではなくなっているからだ。安倍政権の爆買いにはその側面があることを忘れてはならない。
また、自衛隊は米軍の情報システムがなくては満足に動けない。ここで言う情報とは、イージス艦の機密やミサイルのことだ。


つまり、日本は大急ぎで米国依存の脱却を達成する必要があるのだ。もし米国と中国との力関係が逆転して、米中の結託が完成した時に日本が従米姿勢を取っていた場合、日本は自国を守る術を失う。そして、米中の二重属国、あるいは完全に中国の属国となるだろう。


護憲派の大罪

さて、何故我が国が対米従属を抜け出すことができないかを説明しよう。
結論から言うと、憲法九条の存在である。つまり、日米同盟と九条は一蓮托生である。


ここで九条をよく見ておこう。まず第一項。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」


実はこれ自体はグローバルスタンダードに過ぎない。何故なら国際法では、戦争一般は『違法』になっているからだ。開戦法規に則る法治国家である以上は自分から「交戦」を作ることは不可能だ。つまり、自衛として戦争は行われる。


問題は第二項の方だ。これが問題をややこしくしている。
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


多くの人がここで言う交戦権を「交戦する権利」と捉えているがそれは間違い。正確には「交戦国になる」権利だ。国際法では「交戦された」時に各国の判断で交戦主体となることを認めている。つまり九条第二項は、敵から戦端を開かれても交戦することを禁じているのだ。


これは「陸海空軍その他の戦力を持たない」の条文にも言える。国防を放棄する訳にはいかない故に自衛隊が存在するのだが、戦力としてではなく実力組織という名目を持つ。それで法的、装備において色々な制約を受ける。つまり、盾の役割しか自衛隊は持っていないのだ。


このため、我が国の防衛は米軍なしでは成立しなくなっている。米国の保護下では、米国からの要求を断ることは不可能だ。日米地位協定がそれを見事に表している。


そして、日本国内の米軍基地は、米軍の海外派遣の拠点にもなっている。かつてベトナム戦争では沖縄が米軍の出撃拠点となった。イラク戦争に至っては、自衛隊機が米兵を輸送したのだ。(違憲の可能性大)正確に言うとこれらは兵站の役割だが。戦闘しなかったのは九条のおかげ?違う。既に日本は戦争の当事者になっているのだ。
2015年に集団的自衛権が容認となったが、ある意味必然とも言える。つまり、日米同盟が憲法を事実上上回っている訳だ。


ここでさらに恐ろしいことがある。それは、自衛隊には統制規範や軍刑法がないことである。


憲法九条では日本に戦力はないことになっている。そのため憲法には戦力の統制への言及がないのだ。まあ、憲法制定時には自衛隊自体が無かったのだから当然とは言えるが。そのため自衛隊への統制は法律に格下げされる。


もしこれを放置すると、時の政権が法律さえ通せば、今の安保法制よりもはるかに拡大した規模で集団的自衛権を行使できることになる。自衛隊が米軍と共に世界のどこまでも活動するようになることになる。
戦前では憲法の不備によって軍が暴走したが、現憲法自衛隊の暴走を招く危険性を持っている。しかも米軍に従うのだから醜悪極まりない。これに恐れをなさずにいられようか?


さらに深刻なものは軍刑法だ。戦前で言う軍法会議のことだ。軍事行動では、指揮命令系統に逸脱することなく敵を殺しても、個人の責任は問われない。ただし、民間人の殺害は戦争犯罪として処罰の対象となる。


戦争犯罪における責任の主体は国家にある。これは国際社会の常識だ。言ってみれば、社員が何か不祥事を起こしたら、その会社の上層部も責任を取ることと同じだ。


ところが、憲法では戦力自体が存在しないことになっている。そのため戦争犯罪自体が起こらないと想定されているのだ。自衛隊が既にジブチで活動しているにも関わらずだ。
つまり、自衛隊自分たちの戦争犯罪に責任を持つことができないのだ。戦力としてはあまりにも危険である。


日米地位協定にも同じことが言える。もし日本政府が地位協定の改正への交渉を仕掛けても、米国の交渉官はこう言うだろう。「日本の自衛官が米国で問題を起こした時に、それを裁く法がないから無理」今の地位協定互恵性を求める。しかし日本はそれに答えるための法体系がない。そのため九条第二項がある限り、日米地位協定の改正は不可能だ。


何故このようなことが長年放置されてきたのか。答えは単純。日本は戦後ずっと米国の軍事的管理下にあったからだ。横田空域に代表されるように、軍事的主権を米国に委ねた保護国だったから。ただそれだけ。


はっきり言って、護憲派は日米同盟の補完勢力だ。九条の虚構の凄さを盲信して、平和を唱えてきただけだ。それでいて自衛隊国際法に真面目に向き合わず、解釈改憲でお茶を濁してきた。
ある意味、九条と護憲派連中が従米売国政権、安倍政権を生んだとも言える。こいつらに沖縄米軍基地による苦痛を解消することはできない。

脱対米従属のために

はっきり言うと、たとえ安倍が辞めたところで、九条や日米同盟を改めない限りは第二、三の安倍政権が出ない保障はない。そのため、自主防衛体制の確立こそが必要なのだ。


まずは憲法改正だ。現在の九条では自衛隊や日米同盟を抑制できない。まさに戦前の轍を踏むことになる。
そのため、九条第二項の改善が必要である。


改憲は安倍政権下でも問題はない。改憲の手続きを行うのは国会であって内閣ではない。国民投票も避けられない。
それに、安倍晋三改憲自体を目的としている。自衛隊追加の改憲案を見ても明らかだ。もし立憲主義改憲案が国会に出てくると、奴はそれに乗るだろう。そして悲願の改憲が叶うと、奴は切りの良いところで解散する。当然緊急事態条項も自然に消える。


次に自衛隊。軍拡には防衛装備庁や民間機企業の連携による官民一体の体制の元に国産開発を進める。


最低でもミサイル防衛は単独でもできるようにする。敵国のミサイル情報を得るために、米国と同水準の早期警戒衛星を開発・導入する必要がある。早期警戒管制機も同様だ。また、MD対応のイージス艦の増産も必要であり、当然米国に頼る訳にもいかない。


空母の増産も必要だ。私は基本的に東支那海の防衛に専念するべしと考えるが、南支那海における問題に対応できるようにするにはやはりそれが必要だ。最も万全な体制は三隻体制だ。一隻は訓練に、一隻が整備員、そして一隻が実践に配備されるのが望ましい。もちろん、空母に装着するカタパルトの開発も必要。


戦闘機については、F35の導入を止めて他国との共同開発に乗り出すとよい。残念ながら今の我が国に独自の戦闘機を開発するだけの基盤はない。そこで、欧州などの小国と共に開発に乗り出すことが最善と言えよう。


さらに、専守防衛を改めて、他国の基地を攻撃できるようにするべきだ。ここではSLBMの装備が望ましい。何故なら日本の国土は狭く、固定燃料による移動式のミサイルでは敵の格好の的となりかねないからだ。むしろ前者の方が敵のミサイルへの抑止力にもなる。
SLBMに必要な原子力潜水艦も必要であるし、単純な潜水艦も数が充分とは言えない。これは三十隻体制にすることが相応しい。


AAV7を中心とした海兵隊は一度解体した方がよい。代替としては海上自衛隊の方から陸戦隊を編成すると良いだろう。


近いうちにサイバー戦の普及も考えられる。そこで、サイバー部隊の設立が必要である。前述通り、北朝鮮は大規模なハッカー部隊を編成しており、ミサイルよりも強力だ。これへの対策は必須だ。


勿論、自衛隊の医療や通信の改善も必要である。これを疎かにしているようでは長く戦うことはできない。特に船医の問題は深刻である。場合によっては、自衛隊教育機関の改善も考えるべきだ。


そして、米国の核の傘から抜け出すために核武装をしなくてはならない。何故なら今のままでは、核縮小の会議に参加することすらできないからだ。唯一の被爆国なればこそ、核武装で他の保有国と対等な位置につくべきだ。


自主防衛には、国債発行による財政出動、健全な経済成長が必要である。緩やかなインフレ基調が続いて、しかも政府による需要創出に伴う物価上昇には賃金の上昇もある。むしろ財政赤字の方が望ましいのだ。
よって、軍拡には、消費税増税社会保障費の削減などを財源とすることが間違いなのだ。


ではどこまで財政出動国債を発行すれば良いのか?具体的には、日本のインフレ率が三%を超えるまでは問題ない。物価上昇率国債発行の制約だからだ。仮に軍拡でインフレ率が高まった時は、国債で軍事費を賄う必要はなくなることになる。


自主防衛は約十年程の時間とそれなりの財源があれば達成できる。最終的には年間の軍事費を約十兆円ほどにするのが望ましい。ロシアの年間軍事費が約六兆円、インドが約五兆円であることを考えると、日本の自主防衛に二十~三十兆円必要という試算は間違いであることが分かるだろう。


東アジア情勢や日米同盟不安定な今、我が国は真剣に国防に向き合わねばならない。さもなくば亡国を免れることはできないのだ。このことを警告して、本稿を終えよう。

混迷する辺野古の解決への道は

先月末に行われた、辺野古移設を巡る住民投票の結果は、反対が全投票数の七割だったのに対して賛成が二割にも満たないという圧倒的な差が付いた形になった。これを見ても、沖縄県民が辺野古に反対していることが分かる。

振るわなかった投票率の背景

一方で、全体の投票率が六割にも満たなかったことを気にする人もいるのではないか。
実はこの原因が賛成派が惨敗した理由とリンクしているのだ。

ピーター・F・ドラッカーという人物を知っているだろうか。一般的に彼は『マネジメント』として知られているが、実際はファシズムを研究してきたジャーナリストであった。彼はいち早く、当時は泡沫候補と軽視されていたナチスの危険性を察知してヒトラーに取材したことがある。そんな彼は処女作『経済人の終わり』にてこう書いている。

プロパガンダの蔓延の危険性は、プロパガンダが信じ込まれる、ということにあるのではない。その危険は、何も信じられなくなり、全てのコミュニケーションが疑わしいものになることである。

思えば、辺野古の賛否双方は激しい情報戦を繰り広げてきた。特に近年、SNSの発展によってますます過熱している。中には「沖縄の龍柱は中国への従属の証だ」、「反対派は日当二万円を貰っている」、「反対派が六歳のハーフ女子を集団暴行」といったガセネタから火のないところに煙はたたぬといったものまで、双方が激しいプロパガンダの応酬を繰り返した。

このことの最大の問題点は、人々が「何も信じられない」という心理状態になることだ。人はこの状態になると、二通りの行動を示すようになる。一つは「全否定」だ。まず、不信を植え付けたものを全否定しようとする。信頼できないものに判断を任せられないからだ。今回賛成派が惨敗した理由がそれに当てはまる。

だが、もう一つの方はもっと危険である。それは「無関心」である。例えば、宗教的なことを信じない人がカルト的な話を聞かされたらどう思うか?多分、つまんないと寝るかドン引きして距離を取るかのどちらかだろう。人間は得体の知れないものから距離を取ろうとする防衛本能があるからだ。

こう考えると、沖縄県民の約半分が棄権した理由がよく分かる。その人達は、デマや個人攻撃といった情報によって基地に関するコミュニケーションに不信を抱いているのだ。そのような冷めきった状況では、熱意を持つ人を除いて、多くの人が「もういいや」と自分の意思を示すことすら諦めてしまう。

そして、この無関心はファシズムの温床でもあるのだ。人々がもういいやと塞ぎ込んでいるときに「これが正解」と道を示す者がいたらどうなる?おそらく多くの人がそれに飛び付くだろう。そして、全体への服従と不信者に対する糾弾が始まる。

ドラッカーは、外部から情報を取り入れて生かすフィードバックが必要と言った。つまりマーケティングだ。
賛成派が今回のような民意を否定するほど政治不信は高まって、後にそのツケを払うことになる。

辺野古の本質的な問題

本来であれば自民党は沖縄の民意へ対応策を考えて欲しいが、現状ではそれを望むことは難しい。
そこで我々が考えるべきことは、「そもそも何故沖縄に米軍がいるのか」ということだ。

まずこの問題の前提として知るべきことは、日本側に軍政はないことである。名目上では、沖縄は1972年に米国から返還された。しかし返されたのは民政だけであった。つまり、日本側には軍政つまり米軍基地に関しては口出しできない。これが日米地位協定の正体である。

このことは何度も起きた事故を見ても明らかだ。米軍ヘリの部品か落下した時も、米軍は日本側の相談もなしに調査を行った。また、安全性の問題点が指摘されているオスプレイもいつの間にか配備が完了した。つまり、日本には米国の意向に反対する権利がない。

ところが、当時の首相の佐藤栄作、後の自民党も外務省もこの事実を伝えていない。文書に残っていないか隠蔽されるといった自民党の悪癖が現れている。おそらく米国としては何故沖縄で反基地運動が起き続けるのか理解できないというのが本音だろう。

戦略的な面を見ても米国が簡単に沖縄を手放すとは思えない。中国の軍事覇権主義に真っ先に晒されるのは尖閣であり沖縄だ。辺野古反対派は「中国は攻めてこない!」と強弁するが、中国が太平洋侵略のために戦略を立てていることを考えるとやはり脅威は否定できない。

事態の複雑さは自民党が一番知っている。辺野古問題には歴代政権がコミットして、政治家が利権化してきた経緯がある。安倍政権としては、辺野古は介在できる問題ではなく、過去の延長線上に行うしかないと認識しているのだろう。
また、辺野古は国政案件でもあって沖縄は政府から委託された事務を行っているに過ぎない。知事の判断で左右に動かすことは不可能だ。これに反発したい人は憲法第八章を読んで欲しい。仮に沖縄が辺野古の差し止めを求めた裁判を起こしても勝算はない。

したがって、いくら沖縄が自分たちの民意を掲げたところで効果は薄い。

トラストミーという悪夢

皆は「トラストミー」を覚えているだろうか。そう、我らが鳩山由紀夫だ。
この際はっきり言おう。鳩山の外交は史上最悪である。

奴は総理に就任した時に、「最低でも県外」と言い出した。しかし、奴には何の目算もなく、数日後には「辺野古しかない」と勝手に主張を変えた。当然沖縄県民は馬鹿にされたと怒り米国はルーピーと軽蔑した。

ここで私が指摘したい最大の問題点とは、国家間の信頼を破壊したことである。

さっきも書いたが、自民党辺野古にコミットしたりしたが、その中で米国との信頼関係を築いていって、日米同盟を継続させてきた。(地位協定の是非は別)しかし、奴の率いた民主党は大事な米国との関係を破壊してしまった。

例えば米国では、政権が変わると外交のニュアンスは変わるが、根本的な関係はすぐには変わらない。これは他の国でも同じだ。
つまり、鳩山みたいに、ちゃぶ台返しの様に外交方針を変えようとすることは国際的に非常識である。

沖縄では「鳩山は恩人だ」と評価する声があるらしい。とんでもない!
あんな、沖縄県民の心を弄び米国との信頼関係を破壊したルーピーのどこに恩人と言えるところがあるのだ。私個人的には訪沖を禁止する措置を奴に与えるべきだと思う。

辺野古という最悪の選択肢

さて、ここまでさんざん書いてきたがあえて言おう。

辺野古移設は最悪の政治選択である!

まず、辺野古は大浦湾の海面下の地盤が非常に軟弱である。(特にC護岸)その深さは何と九十メートルにもなる。
政府は砂杭を地中に造って地盤の水分を抜くサンドドレーン工法と砂杭を打っていくサンドコンパクションパイル工法を想定しているが、砂杭は七万を超える量となり工事の長期化は避けられない。しかも九十メートルをカバーできるかどうかすら怪しい。
その他の地盤も「極めて危険な活断層」と指摘されている。

また、軍事面にも問題がある。普天間には世界最大級の航空機が離着陸できる約二千七百メートルの滑走路があるが、辺野古は約千二百メートルの滑走路しか建設できない。
辺野古には海兵隊が駐留する予定だがそれにも問題がある。何故なら海兵隊尖閣の防衛には不要であるからだ。そもそも尖閣には補給拠点がない。仮に中国軍が諸島に上陸しても何もできない。つまり海兵隊の出る幕はない。尖閣防衛は制空、制海権を巡る戦いになるのだ。

辺野古の欠陥は、平成二十九年四月五日に公開された米国会計検査院の米軍再編に関する報告書に記されている。そのためか、米国政府は非常時における那覇空港の利用も求めている。また、元海兵隊幹部のロバート・エルドリッジ氏も著作『オキナワ論』にて辺野古の問題点を指摘している。

つまり、辺野古普天間の代替施設になり得ないのだ。よって、辺野古移設が完了しても普天間が還ってこない可能性が高い。この事は稲田朋美が言及している。
もしも辺野古移設が完了した場合、普天間は一部縮小するのかも知れない。しかし普天間の近くには小学校等がありその上を米軍機が飛び回るといった状況は続く。その時、「辺野古が唯一」というプロパガンダが嘘であることが発覚することで自民党と日米同盟双方が信頼を大きく失う。そして最終的には終焉の時を迎えるかもしれない。最後に笑うのは尖閣、沖縄に野望を向ける中国だ。

沖縄がとるべき行動

この混迷した状況を打破するために、私は沖縄と在沖米軍との交渉を提案する。残念ながら安倍政権に沖縄側が交渉を仕掛けるのは困難だからだ。そこでは、岸信介が改定して佐藤栄作が自動延長させた日米地位協定の矛盾及び沖縄返還イカサマまで戻って議論する必要がある。そして辺野古に替わる代替案を作らなければならない。こう言い出すと「代替案は本土も揃って考えるべきだ」と反論する人がいるだろう。その気持ちは分かるが、最初に書いたように基地に関するコミュニケーションへの信頼が低下している状態では難しい。その時沖縄には「日本全体のために沖縄が果たすべき役割」を考える必要がある。

沖縄と米軍との交渉が合意に至れば、安倍政権は沖縄との交渉に臨みざるを得なくなるだろう。その時には、本土には「日本全体として沖縄に何ができるのか?」ということを考える必要がある。互いにwinwinの関係を築くことで、辺野古問題に漂っていた閉塞感を払うことも期待できる。
そして最終的には、米国政府も交渉に加わって最終調整を行うと良い。

玉城デニー氏はsacwoという、日本政府、沖縄、米軍の三者が交渉する場を設けようとしているらしい。ただ、現在の安倍政権では無理だろう。ならば沖縄と在沖米軍と話を付けた方が有利だろう。

長く続いた辺野古問題が解決に向けて前進することを期待して本稿を終えよう。

ブログ開設のご挨拶

  初めまして、この度ブログを開設した華皇といいます。今後よろしくお願いします。

 

  本ブログでは主に時事問題だけでなく経済、思想・歴史など書いていく予定です。

 

  コメントについては基本承認するつもりではいます。ただし、以下の二点に該当するコメントは承認しません。

  1.   荒し目的のコメント(スパム、記事に関係ない書き込みの繰り返し、ブログ更新の催促等)
  2. 人種・民族・性別等に関する差別目的のコメント

  これらの類いのコメントを繰り返す人はブロックします。

 

  私自身未熟なところは多々ありますが、どうかよろしくお願いします。


(追記)

2021年2月13をもって、「四葉達也」に名前を変えました。